今でも後悔していること

 桜って、咲くときは「GW並みの暖かさ!」とかそんな感じなのに、いったん咲いてしまうとなんか寒くならない?釣った魚に餌はやらない的なやつ?多分違うけど。
・・・そんなしょーもないことばっかり考えている、日系三世のNicky黒井です、おはよーございます。

 さて、糾弾する記事ばっかりが続いていますが、今日は珍しく、私が今でも後悔していることを書いてみます。
 卑怯者というか、少なくとも、勇敢でも親切でも誠実でもなくて、たとえその問題に私が立ち向かわなかったとしても、もうちょっと何かできたよね?というお話です。
 英語で「You could have done better」、もうちょっとマシな事できたんじゃね?って言う感じ。

 私が高校生で、留学から帰国した年に、私が通っていた高校に留学生が来ました。
今から5年以上前の話よ?
 まぁ、帰国したての高校生なんて、親の転勤とかじゃなくて自分で「海外に!」とか思って行った訳だし、もう、英語なんて喋りたくてしょーがない訳です。私だけかもだけど。ほら、このままだと英語忘れちゃうかな?みたいな不安もあるし。
 で、クラスは違ったんだけど、その留学生と、選択授業が同じだった時間なんかは、話したり何だり、それなりに仲良くなったのでした。
 でも、まぁ、クラスも違うし、そっちのクラスでも仲が良いグループなんかもできてたみたいだし、現地(日本)に溶け込むのが一番だから、私が英語であんまりちょっかい出すのもなー、なんて、ある程度の距離は保っていた記憶が。これは、別に、私が偉いワケでも何でもなくて、やっぱりさ、イヤらしいじゃん。「私、留学帰りでーす。英語話せまーす!」丸出しなのって。なんつーか、「え?そこまでガツガツしちゃう?」みたいな?ほかの留学生の現地での体験の機会を奪ってまで自分が英語はなしたい?だったら金払って英会話学校でも行けよ・・・みたいなね。羞恥心まで行かなくても、「留学帰りあるある」みたいのと「私は違うから!」みたいな、変な自意識が働いていたんだと思うの。どっちがイヤらしいかって話だよね。
 あと、留学中に「日本に興味があります!」的な人が来ることがあってね。それ自体は、まぁ、有難い話ではあるんだけど、度が過ぎると、「いや、私、別に日本語と本邦の伝道に来たわけじゃなくて、むしろ、この国のランゲージをスタディしにきたのよ、アンダスタン?」みたいな気持になったりして。
 だから、日本の事を学びに来た人は、日本に浸るのが一番だよね!

 余談ですが、留学帰り、それも高校で留学とかすると、当時(プラザ合意のころですな)は、「お高く留まって変な人」とか「一年くらいどっか行ってたからって随分エラソー」とか、そんな受け止められ方も多くて、帰国した側も「自分は特別な体験してきたし?」みたいな頭が高いっつーか、他の生徒をちょっと見下した感じだったりして、どっちもどっちなんだけど、その後、あんまり素敵な人生を送ってる人を見たことがなくてね。
 ほら、海外に行っても別に受験英語ができるようにはならないじゃん?んで、「別に(科目としての)英語もできる訳じゃないのに、なんか会話に英単語挟んできて、ジェスチャーも大袈裟だったりして、バカじゃないの?」みたいな見られ方をする人も多かったりして(そりゃ、会話中に「ア、ハーン?」なんて相槌打たれても困るし、「レイディオ」とか「キャーメラ」とか言われてもギョッとするよね)、本人は「私を特別に見て!」な気持が強すぎて、空回りしたりして、しかも、学校の科目としての英文法や英作文(文法的な正しさと、難しい単語力を問われるやつ)は一向にできないし、本人が思っているような「英語ライフ」じゃなくて、「一年どっかに行ってただけの、ただの変な人」になってる事も正直多かったように見えるのよ。(ちなみに、ガチでネイティブ並みに英語を話せるような帰国子女とかは、日本に溶け込もうとめっちゃ努力をするから、案外、わざわざネイティブ発音をひけらかしたりしない気がする!多分、駐在員の子弟なんかは、親から、「教育を海外で受けても、お前が生きていく場所は日本だからね!」って叩きこまれたんだと思うけど。あと、海外に行った体験「も」持っている人なのか、その体験「しか」持ってない人なのかという違いかもね。100パーセントSOかもね!)
 実際、話せるって言っても、所詮は高校生の日常会話レベルでしかないから、そこから真面目にブラッシュアップして行かないと、いい大人になってからも、「高校生の時に一年間留学してました」だけが心の拠り所で、実際の英語自体は留学時から一ミリも成長してない人になるリスクがね、高いのよね。むしろ、思い出の中に生きてるから、英語は忘れちゃって話せないし、自分で思ってるほど「英語ができる」訳じゃなくなってたりしてね。それだけが拠り所なのに、その拠り所自体が歳月と共になくなって行ってて、気が付いてないのは本人だけという悲劇!悲劇、惨劇!
 結構そういうのいっぱい見てたから、明確に意識はしていなかったけれど、漠然と、「留学してましたー、だから何?みたいな大人になりたくないなー」って思ってたわよ。生意気ね!
 でも、居るじゃん、貴方本人には特別な体験だったかも知れないけど、現在はだからと言って、特に何もない人になってるって分かってる?みたいな人。ドルが360円で固定相場だった頃ならいざ知らず、海外に居たって、別に特別じゃないというかね。大昔は、海外に行くことができるってそのこと自体が「大した事」で、それが出来る人は、当然、能力とか資力とか、何かを持っている人だったわけで、だから、海外に行くってことは、何かを海外で成し遂げることが出来ると同義だったわけよね。
 翻って、現在は、別に海外に行っても、それ自体は能力の証にもならなければ、資力云々でもない。下手すると「日本に居場所がなかったのかしら」なんて言われかねない。

 
 それはさておき。
留学生。

 あのね、ある日、休み時間に廊下であったら、なんか元気がないのよ。
どうしたの?何かあった?って聞いても、大丈夫って言う。

まぁ、本人がそう言うなら外野は黙ってるしかないよね。なので、何かあったら言ってということでその日は終了。
 で、翌日の選択授業で一緒だった彼女のクラスメートが「あの子ってワガママだよね」みたいに言ってるのを聞いた。なので、詳しく聞いてみる。
 いわく、クラスで何かを話し合ったりすると(文化祭のアレコレとか)、めっちゃ意見を言うらしい。あと、休み時間とかに誰かが例えば「学食でおやつ食べない?」って誘っても、自分が興味ない時は「私はやめとく」みたいに、誘いに乗ってこない。
 要するに、空気を読まないというか、周囲に合わせるよりも自分の意思を優先するという話。
 それだけだったら、まぁ、「日本だと、同調圧力があるよね」な話で、そこを受け入れて、あるいは、咀嚼してこそ異文化交流だっつー話なんだけど。
 事件は、社会科の校外学習の時間に起こった!
 校外学習で、電車に乗った時に、彼女がぽつんと一人でいたので、社会科の先生が気を利かせたつもりで、彼女に「一緒に座る?」って聞いたらしい。で、彼女は、そこまで「誰かと一緒に居ないと死んでしまう!」な人じゃなかったし、「別にいいです」的に断ったらしいのね。んで「なんで?一人がいいの?」的に食い下がった教師に、別に一人が良いのって理由じゃなくて習慣というか気分というか、説明できるものでもないし、冗談で「先生が嫌いだから」って言ったと。
 ええと、ここで私が「冗談で」と断言してしまうのは、一つには、後で本人から「冗談のつもりだったんだけど」と聞いたのと、あと、本気で相手が嫌いだった場合って、殴り合い上等!とかじゃない限り「嫌いだから」みたいなニュアンスでモノを言わないじゃないスか。どっちかっつーと、もうちょっと逆にオブラートに包むじゃん?「貴方のxxが私の嗜好に合わないので、これはお互いにとって不幸だけれども、一緒に居ないほうがお互いのためだと思料する」みたいに。そして、彼女本人の普段の発言も、お国柄というか、冗談が多い人だったのと。その辺から、私も「冗談で言った」というのは、その通りだったと思うし、今でも信じているのでした。

 駄菓子仮死!
 異文化は、すげぇチヤホヤするか、じゃなかったら排斥するか極端な二択に走りがちな本邦の島国根性というか、素朴な人間性というか、その辺が災いして、既にちょっと「ワガママ」とか陰で言われていた彼女が「校外学習の時に、先生に凄い失礼なことを言った」という話になってしまったのでした。
 まぁ、アレだよね、普段べつに全然年長者を敬ってなくても、何なら教師をクソミソに言ってたとしても、突然、儒教道徳に目覚めるよね。そして「ガイジンは教師を敬わないとんでもない人種だわ」とか言ったりするよね。授業なんか1ミリも聞いてない生徒もいきなり優等生になっちゃうよね。集団の同調圧力は、外にいると「怖い」けれど、その中に入っちゃうと、無条件で連帯感が生まれたりして気持ちいいよね。安心感があるよね。受け入れられた感があるよね。思想の右左を問わず。ハイル・ヒトラーから大日本帝国万歳から万国のプロレタリアよ団結せよ!まで。

 で、ある日、留学生本人から、「冗談で『先生が嫌いだから』って言ったら、なんかすごい事件になってる。どうしよう」と相談されたのね。私も経験があるけど、異文化で意外なところから流れ弾が飛んでくることって多いよね。すごいビックリする。

 私も別に、日本を知り尽くしていて、方法は任せておけ!って感じでもない。そりゃそうだよね、日本人だからって日本人をコントロールする術を知っている訳じゃないし、そんな事があったら、ネット炎上事件も起こらないし、思想も統一されているはず。
 で、無い知恵を絞って、彼女が「明日の朝のホームルームの時間に、クラスメートの前で釈明と謝罪をする」という事に落ち着いたのでした。冗談のつもりで言っちゃったけれど、先生に対して敬意を欠いた表現になったので、ごめんなさい・・・みたいな。

 ここからが本題だ!

 ねぇ、貴方ならどうする?
 ある程度話せるとはいえ、異国で、クラスメートの前で釈明と謝罪するって言っている友達に対して、どうする?

 私、これはとっても卑怯なことだし、今でも後悔してて、ほんと恥ずべき事なんだけど、友達を見捨てて自分だけ安全圏に逃げました。

 翌日のホームルームの時間、あっちのクラスでどーなってんのかなと思いつつ、でも、あんまり余計な事をして、しゃしゃり出た自分がハブられてもやだし、彼女は自分で何とかするよね!って、放置しました。
 だって、彼女は半年間が終わったら帰国するけど、私は卒業までこの学校に居る予定なのよ?それまで、クラスメートとも、ほかの選択授業で一緒の人とも、上手くやって行きたい。
 ガイジンの失言の尻拭いに付き合わされるなんてリスクは取りたくない!
 てめぇのケツはてめぇで拭けってことですな。


 ねぇ。それが友達なの?

まさかの友は真の友って言うじゃん?
友達の窮地に、敵前逃亡キメちゃう?
エラソーな事を言ってても、所詮その程度なんだよね。

 なんていう、脳内の自分の良心のツッコミを「安全第一」と振り切って、その日は、彼女を避けるようにして、何となくそのままにしたのでした。
 

 その後、少なくとも表面上はクラスメートと平穏な日常を取り戻して、彼女は帰国して行ったけど、私は、友達甲斐のなかった自分を、今でも許せません。
 いや、別に、そのクラスの人々の前に立って「異文化って」とか「あの国の文化として冗談っていうのは」とか、そんな事をしてヒーローになれって話じゃなくてね。
 そうじゃなくて!
 辛いときに、何で、背後にドーンと控えて、彼女を支えられなかったのか。特別な事をしたり、私が矢面に立ったり、彼女の分まで「混乱の処理」をするとか、そういうんじゃなくて、理由とか背景はおいといて、彼女が「自分でやらかした事の落とし前を、自分なりに考えた方法でつける」時に、何故、私が味方だって彼女にハッキリ言えなかったのか。
 大親友でもなかったから?
 そんなのは理由にならないよね。

 ハッキリと敵よりも、こういう、味方のフリしといて、いざって時に全然頼りにならない奴が、一番始末に負えないよね。
 
 あの後、ずっと、じゃあどうしたら良かったのかなって考えていて。
 たぶん、私も自分のクラスの担任に事情を話して、彼女のホームルームに立ち会って、雰囲気があまりよくないようだったら「あの国の冗談文化」について、ちょっと私が実際に日本人として体験してきたことを話すとかで、「冗談だった」ことの補強材料を提供するべきだったかなとか。
 いや、彼女はもしかしたら、アテにならない奴をその時点で分かって良かったじゃんとか。
 でも、もっと上手に立ち回って、仲介役じゃないけれど、少なくとも何らかの理解へのヒントを出す事くらいできたんじゃないのか。
 保身って言ったって、私はクラスも違うし、あのクラスで何か言われたとしても、保身の必要すらなかったかも知れないじゃん。 
 ちなみに、私の在籍してたクラスは、男子が2/3という男子クラスで、帰国生に対しても、別に「えー、そうなんだ、留学してたんだ!」って程度で、サラッと受け入れてくれていて、あまつさえ、学期途中で帰国した私を「年上だし」という意味不明な理由で、学級副委員長というポストを用意して待っていてくれたような所でした。(委員長と、もう一人の副委員長は忙しいポストだったけど、二人目の副委員長は盲腸と言われるような「あってもなくても困らない」ポスト。どっかの委員会とかに嵌め込まないといけないので、副委員長ね!って決まっていた模様)
 ね?私が何かを怖がる必要なんて、なかったじゃん?

 って言うか、独りよがりで「これをして『あげよう』」「こうすればよかった」じゃなくて、彼女に「明日のホームルームの時に、私に何かできる事は?」って聞けばよかった。そして、ひっそりと「友達だよ」って言えたらよかった。
 単に「頑張ってね」じゃなくて。
 そうやって、背中を向けるんじゃなくて、必要ならそばにいる覚悟をすればよかった。
 大した事はきっと期待されなかっただろうし、でも、例えば、四面楚歌の中で、一人でも自分を向いている人がいるっていうのは、どんなに心強いことか。私のよーなヘタレだけかもだけど。それも、皆の前でじゃなくても、こっそりでも、「応援するよ」って言ってくれる人が居たら、人生はどんなに生きやすいものになることか。

 そして、当時は頭が回らなかったとは言え、それをしなかったのが私だ。

  友情についての歌とかあるじゃん?
 Queenの「Friends will be friends」とか、ディオンヌ・ワーウィックの「That's what friends are for」とか。古いやつばっかでごめん。
 まぁ、歌詞って理想論とか綺麗事だってのは分かってるけど、でも、一貫してるのは「どんな時にも、貴方のそばで見守る」とか「貴方の側にいる」とか、そんな感じじゃん?
 翻って、私は、友達を名乗る資格なんてないよなぁ。
 その程度の覚悟すらなかったんだもん。
 「誠実ではない友があるよりは、むしろ、敵があれ」って、シェークスピアも言ってるじゃん。

 もうね、取り返しはつかないし、仮に私が例えばFBなんかで彼女を見つけ出して「あの時は」なんて言っても、単にそれは、私が自分の良心の呵責から逃げたくてする謝罪だから、もう一つ別の重荷を彼女に丸投げすることになるじゃん。

 という訳で、別にオチも何もないのですが、そして、彼女はどう感じていたか分からないのですが(案外、「別に一人でサクサクできるし、そばにいて欲しいとか思ってもなかったし?」って感じだったかもしれない)、自分が、自分の良心と正義に背いたことは、自分が一番わかっていて、この先も、それを背負っていかないとならない。
 せめてできる事と言ったら、これから先の人生において、自分の良心と正義に忠実であることだよね。

 できるのかなぁ。
 例えば、ヘイトクライムとか差別的な事件なんか、全世界的に増加の一途じゃん?特にトランプ政権になってから。本邦でもそういった傾向はあると思うんだけど、声がでかくて怖い人々が理不尽な差別を声高に叫んだ時に、理不尽な烙印を背負う覚悟で、何なら自分が害されるかもしれない可能性を背負う覚悟で、自分の正義と良心に忠実でいられるのかな。
 仮に当事者じゃなくても、それでも、それが正義と良心に反する限り、戦えるんだろうか。私にできるのか。その覚悟があるのか。
 死ぬときの後悔は、卑怯者であったことと、リスクを背負ったことと、どっちが大きいんだろうか。(だいたい、良心に殉じた人なんて、ヒーローは一握りで、99パーセントは犬死だからね)
 
 それでも、少しでも良心と正義に忠実でありたい。
 そのためにも、そんな大きなことじゃなくても、日々の小さな「自分の良心と正義」にもっと敏感で誠実であろうと思うのでした。

 んー、なんかエラソーでごめんぬ。
 要は、ゴチャゴチャえらそーな事言ってるけど、私、卑怯者でした!って話よ。