他人が怖い

 はいどうもー。台風が来ますね、皆さん、備えは万全ですか?日系三世のNicky黒井です。こんばんは。

 なんつって、一年くらいブログ放置してました、すんません。だって書き始めると長いんだもーーーーーーん。

 さて。
 さっき、ちょいと用事があってとあるお店に「お宅の商品(お菓子)は、日持ちがどれくらいなのか」を電話で問い合わせました。
 んもう、私ってば、パッと見は超偉そうで怖いもんなし!みたいに見えるけど、電話とか超苦手でさぁ。。
 で、何でこう苦手なのかな?って考えてみたんだけど、私の基本的な思い込みの中に「外界は怖いところで、人々は不親切」っていうのがあるのね、きっと。そりゃあこの世界には不親切な人も、何なら「誰でも良かった」とか言いながら自分より弱そうな人を狙う殺人鬼も、わざわざ私のような誰も読まないブログにケチを付けに来たりするような人も居たりするけど、でも、常識で考えて、自分のお店に「お宅のお菓子って、日持ちどれくらい~~?」って問い合わせなんて、買う気満々でしょ、嬉しいでしょ、不親切にする動機がないでしょ?

 なのに、何か不安。
 つっけんどんにされるんじゃないかとか、そういうふわっとした不安。

 商売をしていて、自分の商品に照会が来て、それで相手につっけんどんにするとしたら、そういう人は商売に向いてない。例外は「ただで欲しいんだけど、いくつならタダで行けそう?」とか、そういう狂った照会。それは照会とは言わない。単なる営業妨害。だから正解は「帰れ!塩撒くぞ!」一択。「帰れ」を江戸っ子っぽく「けぇれ!」って発音したらお洒落よね。もちろん「れ」は巻き舌で。
  まぁ、普通に「買いたいんですけど、日持ちは?」って問い合わせだったら、私なら電話に向かってお辞儀するね、イエース!ジャパニーズ(元)社畜

 今ね、足を痛めて鍼に通ってるんだけど、最初、紹介されて予約の電話入れる時も「なんか怖い先生だったらどうしよう」って、電話の前でずっとウロウロしてたのね。普通に親切な先生だったし、何なら、施術中に他の人の話を聞いてると、相当な無茶ぶりも上手い事さばいている先生。例えば「虫歯が痛いんだけど」「それは歯医者さんだよ~」とか「骨折みたいなの」「まず整形外科で診てもらって?」みたいな。
 最初から「はぁ?何?何が言いたいの?ハッキリ言って!分かんないから電話切るけど?」なんて言ってたら、名医でもとっくに廃業してる。


 んで、両親からの「外界は不親切」という刷り込みだけで、ここまで拗らすか?って思ってよくよく考えてみたら、幼い時の私が要領を得ない話をしていると「だからなんなの?」「ハッキリ言いなさい!」「訳わかんないことを言うな!」で遮るのって、両親だったわ。
 いや、外界が不親切っていうか、単に両親が不親切でしたわ。
 子供って要領を得ない話し方するじゃん?
 それをね、バッサリ行くの。じゃあ論理的に行くか?って話だけど、そこはあんまり関係なくて、要するに、子供の話なんて聞かない親だったわぁ。(でも自説は延々と説く。タロットの「教皇」の逆位置的な?間違った権威?)
 つか、子供が論理的にテキパキ話してたらそっちのが怖くない?いや、もちろん、彼らが求めてたのは論理性じゃなくて、逆で、子供の話なんて聞きたくないから「要領を得ない」「はっきりしない」「訳わかんない」でシャットアウトしてただけよね。
 ええと、そういう「曖昧模糊とした」「漠然とした」「訳わかんない」子供の話をうまいこと聞き出すのが親の役割ではなくて?

 まぁ、前職の上司がめっちゃ頭が回る人で「結論から言って?」な人だったけど、でも、それは大人の、しかも仕事の話じゃん?別に全然そんなの嫌じゃなかったし(最初はビックリしたけどね)、むしろ、「おお、頭が良い人はそういう話の順序なのか!」って思ったよね。(その上司でもシャットアウトはしなかったぞ)
 あ、別に結論とかどうでもイイ、楽しい雑談とかは、経過を楽しむワケだし、順序なんてあっち行ってこっち行って~がキャッキャうふふなんだから、それは全然別の話よ?効率重視のお仕事の話ね。

 うん、今は絶縁してるけど、仮に、両親と話すことがこの先あったとして、老人の要領を得ない話を「情緒的すぎてちょっと何言ってるか分からない」って一刀両断する自信があるわ。
 愚痴?言われた瞬間に「非生産的」って斬り捨てるね。
 よく「なんでこんな子に育ったのか」的な事を言われたけど、今なら、「育てられた通りに育ちました!」って胸を張って言うね。いや、胸に張りがあるかはベンチプレスで重量を上げて行けるかにかかってるけど、ここではレトリックよね?

 で、思い切ってお店に電話したのよ。海外特有のそっけない感じではあったけど、ちゃんと「うちは保存料を使っていないけれど、だいたい10日くらは大丈夫」「ただ、お祭り用のお菓子は、今、在庫がちょうど切れてて、今日明日フル回転でいっぱい作るので、来てくれるなら金曜以降ね」って教えてくれたよ!
 いや、電話して良かった!そのお祭りの日にちとか、人に贈りたいのでその日程とか考えると「台風の中、明日の午前中か?」とか思ってたのよ。台風のなか買いに行って、「切らしてます。明日以降ならできるけど」って言われたら、きっと「あー、やっぱり電話で聞けばよかった」ってなるじゃん?…って言うか「お祭り前に、この重要なお菓子を切らすか?このボケナス!」とか、自分が「不親切にされたらどうしよう」って、念のため聞かなかった事を棚に上げてイライラするじゃん?ボケナスはどっちなの?って。

 でさ、習慣なのか、要件が終わると「お待ちしています」でも「お電話ありがとうございました」でもなく、サクッとあちらから電話を切るワケ。で、それで私が「不親切」と思ったか? 思わなかったよ!
 じゃあ、私が思ってた「不親切」ってどんななんだろう。。。
 たぶん、両親からされたみたいに、伝えたい事を聞いてもらえない、用件を果たせない、そんな感じの事をされたら「怖いなー」って心のどこかで思っていたのかなと。でも、普通に考えたら、くどいようだけど社会人で、しかも商売をしている人はそんなことしない。だって失礼だし、それじゃ商売にならないから。
 って言うか、好意的に「お宅の商品(あるいは施術)に興味があるんですけど?」って寄ってきた相手に、わざわざ失礼を働くって、どんなプレイ?

 まぁ、そんな訳で、ふだん意識すらしないけれど自分の行動を制限するような「思い込み」って、ちょいと掘り下げてみると、案外、かなり的外れなことがあるよなぁと、今更ながら思った次第。
 もちろん、外界には不親切な人も、「あれでよく商売を?」みたいな人もいるけれど、それはご本人の問題であって、私が克服するのは、不要な思い込み。まだ相手が何もしてもいないし、言ってもいないのに「攻撃されたらどうしよう」って、相手にも失礼だしね。
 まぁ、だからっつって、いきなり魔法のように「いやーんな感じ」がなくなるとも思えないけれど、でも、できたら今後は、少なくともこちらからは礼儀正しく、それで相手が攻撃的だったら、それから考えればいいや!ってなって行けたらいいなと思うのでした。
 
 普段より全然短いけど、今日はここまで!
 ちゃおー!

軸のリハビリセンター

はい、しつこく補足する日系三世のNicky黒井です、こんばんは。

でさ。(イキナリ)
自分の本心を確認しながら生きるって言っても、突然は難しいワケよ。
だって、やったことないから。
不安で仕方ないから、私の本心の方向で何かしてて、それでも大丈夫な人を探して安心する的な事をしちゃう。
例えば、ジムにゆるっとしたペースで来て、別に試合に出るとかは目標にしていない人が居るとするじゃん?「あ、上達は目指しても、試合は目指さなくていいんだ」って安心するの、ようやっと、そこで。
それって「正しさ」を求めちゃってるよね。
そういう「正しいお手本」とか「そっちに行って大丈夫なサンプル」がなかったら、私、どうなるんだろう。自分の「こっち行きたい」「あっちはヤダ」を諦めちゃうのかな。

何てことをツラツラ考えつつ、正しくなくても、自分の本心に忠実になれるように、鋭意リハビリ中です。
いや、そもそも、「自分の本心」に「正しい・正しくない」という尺度を持ち込みたくない。そういうので自分を測るのは、もうウンザリなワケよ。

という訳で、軸を据えて、しかも、それを「正しい・正しくない」の尺度じゃなくて、「本心かどうか」で測っていくためのリハビリ中です。
令和はリハビリ元年ってことで、ひとつシクヨロ。

軸を鍛える!

 はい、いきなりトレーニングブログのタイトルみたいになってますが、さにあらず!な日系三世のNicky黒井です、おはようございます。
 平成最後の投稿になるかなー。
 令和になる前に一つ書けて良かった!
 いや、まだ書き終わってないけど。

 さて。
軸。
大事よね、軸。

私も、ほんと、体幹が弱くて、必死にプランクとかやってるんだけど、でも、知ってた?体幹だけ鍛えると、今度は他の部位に故障が出たりするので、全身をバランスよく鍛えないとダメみたい。
実際、お腹がバリバリに割れてる女性アスリートが、体幹に比べて足が弱かったりで、怪我ばっかりしてる話とか聞くしね。

あと、椎茸の軸ね。これ、捨ててない?イイ出汁が出るらしいから、捨てないで出汁取ってみて!
あと、最近気になるのが「出汁」のことを「だし汁」とか書くやつ。「出汁」ってかいて「だし」だからね。もう「出汁」って、その後に「汁」とか付けなくても、旨味成分を漉し取った「汁」だから。
あと「どんぶり」をね「丼ぶり」って書くのも「なんじゃそりゃ」って思うよね。「丼」一字で「どんぶり」って読むわけで、「どんぶりぶり」って何よ?とかさ。まぁ、「マグロ丼(どん)」って読んだりした挙句「丼」は「どん」だから「その先に『ぶり』って書いとく!」って事なのかなとも思うけどさ。そして、言語は変化していくモノだって分かってるけどさ。でもなんかキモチワルイー。
余談だけど。

で、今回の軸ね。
所謂「自分の軸」の話ッス。前置きが長い!
私ねぇ、小さいころから特に父親から「お前は本当にワガママ」って言われて育ったのよ。今にして思うと、単に、自我が芽生えただけなんだけどね。親からしたら、それまで特に自分の意見がなかった乳児から、自分なりに好き嫌いとかが出てくる幼児になったら「今までと違う!」みたいになったのかなって思うけど。要するに、親からすると、自分たちと違う嗜好だったり意見だったりすると、ある意味面倒じゃん?それを「親と同じなら面倒が少ないのに、自分の意志を持っているから面倒が増える」って事で「ワガママ」とくくったんだよね。例えばさ、今日の晩ご飯は八宝菜!だったとして、「えー、オムライスがいいなあ」なんてのは、たぶん、子供あるあるだと思うんだけど、もうね、それが許せないの、私の両親は。そこで「八宝菜!わーいわーい!」って言わないと許せないの。つまり、「その環境の中で与えられたものを、まるで自分が本当に欲しかったものだと思わせるように喜べ」ってことね。
仮に「えー、八宝菜・・・。まぁ、八宝菜でも、いっか」ってなるじゃん?そんなのは許されないのね、実家では。「八宝菜『が』いい」って直されるの。でも、本当は八宝菜って別に食べたくなくて、でも、まぁ、出てくるなら食べるし特に意見はない!って状況あるじゃん?ダメなの、それじゃ。目をキラキラさせて「八宝菜!」って、北朝鮮の「将軍様の演説に狂喜する市民」くらい喜ばないと許されないわけ。「えー。」なんてもってのほか。銃殺だYO!
でもさぁ、普通に考えたら、「自分はこれがいいなぁ」ってのがない子の方がよっぽど心配じゃん?特に興味がない分野について「どっちでもいい」ってのはアリだと思うけど。
あ、ちなみに我が家では「どっちでもいい」ってのも許されなかったのね。後にも書くけど「自分の頭で考えて育っていけ」みたいなモットーがある家だったんで。「自分の頭で考える」と「違う意見が出るリスク」っていうのは、言い方が違うだけで同じことなんだけど、そんな理屈を言おうものなら父から殴られるワケですよ。理屈を言うな!って。
何だっけ、そう、「与えられたものを、それが本心から凄く欲しかったもののように振る舞う」「空気を読んで、自発的に合わせていく」話。
それがない私は「ワガママ」で「感謝が足りない」子供ってことで、「自分勝手」「ワガママ」という烙印のもとに育ちました。「この子の将来が心配」「我が強くて空恐ろしい」って。
うん、ずっと私、自分で「ああ、私はワガママで自分勝手な性格なんだな。だから、大人になったら、とっても困るだろうな」って思って、必死に治そうとしたのよ。
だから「今日は晩ご飯何がいい?」って聞かれても、「自分は何を食べたいかな」って考えるんじゃなくて、例えば「豚肉があるから、その範囲内で」みたいに考える幼児に育っていったのでした。普通さ、「晩ご飯何食べたい?」って子供に聞くなら、家の冷蔵庫にある食材じゃないものが返ってくるリスクだって織り込むじゃん?それをすると「ワガママ」って人格否定されるから、ヒントに沿うように例えば「生姜焼き」とか「ピカタ」とか答えてました。個人的には、ワガママよりも小賢しいガキのがよっぽどイヤらしいと思うんだけどね。でも、当時、私は「ワガママ」というのがとってもとっても重い罪に思えて、例えるなら「このワガママをちょっとでも治さないと、生きていかれない」っていう死刑判決くらいの重さで抱えてました。だってさ「そんなワガママだと、大人になってから困る」「誰からも嫌われて相手にしてもらえない」「そんなワガママな奴は世の中に出る資格がない」とかさ、幼児期から言われ続けるのよ?それが本当かどうかなんて検証する間もなく、「そっか、私はワガママで、ワガママな人は生きていかれないんだ」って思いこむじゃん。

ちなみに。
海外にかぶれている両親は「自分の意志を持って育て」とも言ってました!
よく考えたら矛盾しない?
自分の意志を持つということは、即ち、親とは別の意見や嗜好や生き方になる可能性を常にはらんでいること。なので、仮に、「自分の子供が、自分たちと全く違う考えを持つかも」という事を受け入れられないのであれば、「自分の意志を持て」なんて言うべきじゃないよね。
いや、お題目として掲げておけば、自分たちは子供に理解があってリベラルな親!っていう満足感はあると思うよ?
ただ、人として少しでも恥を知る心と、一ミリの教養があれば(教育ではなくて教養の問題)、それが意味することは分かるはず。

私ね、ずっと、自分の事を、ある程度は我が強いというか、自分を持っているって思ってたんだけど、何と言うか、自分に影響がない範囲だと自分の「軸」が持てるんだけど、自分に決定的な影響力がある状況下では、相手や状況に合わせてる事に気が付いたのよね。

それなりに気持が入る相手や状況なんかだと、自分を殺してしまう。
結果どうなるかというと、自分にも相手にもよくない状況を招いてしまうことに!
それもね、多くの場合は、完全に私の思い込みなのよ。
健全な精神の人は、自分と相手は違う人で、まぁ、ある程度の「常識」と呼ばれるモノは共有していても、完全に自分の気に入るような事ばかりではない・・・って理解してると思うんだけどね、私は「相手の思惑から外れる」ことに異常な恐怖を覚えるほう。
自分が親からかけられた呪いであるところの「常識」それも、狭い範囲の思い込みでしかない「常識」を後生大事に抱えて、自分を縛っているという。。。
そもそも、人間は多様な生き物であるからして、私が勝手に汲み取った「相手の思惑」なんて、見当違いな訳ですよ。だから、とどのつまり、それは「私が勝手に妄想した、相手が私にこう期待しているんじゃないかという何か」の域を出ない。出てたまるか。
そして、自分でその狭さには当然気が付かない。
例えばね、私の夫は、愛着が安定している人で「妻は、したい事をすればいい」という主義。(まぁ、それでも、他所で浮気するとか、自爆テロを起こすとか、そういうのには多分反対すると思うけど。)私が夜に出かけてこようが、そのために晩メシを自分で調達することになろうが「おっけー」な人。この年でツーブロックカットにしようが、格闘技を習い始めようが、「したいんだったらやればー?」な人。そして、生き辛さを抱えているからセラピーを受けたり、講座を受けたりするのも「必要だと思ったらすればいいよ?」な人。それによって、もしかして関係性が変わる危険性がある訳だけど「その時に考えればよくない?」な人。
・・・って、さも聖人のように書いてるけど、たぶん、世間のというか、夫のあり方としては「普通」なんだと思う。
翻って、私は「自分は妻なので、夜は家に居ないとダメだし、夜以外にも、夫が家にいる時に私が家を空けるのはよくない」という平成の御代も終わろうと言うのに前時代的な思い込みがあってですね、だいたい日曜の夜に開催される格闘技の試合なんかも、「行きたい」「生で見たい」と思いつつ、ずっとずっと我慢してたのでした。
「行きたい」「行けば」という会話はあったけれど、自分で「いや、でも、行くものじゃないよね」という思い込みで「やめとく」ってのが続いたのね。
妻だから。家に居ないとならないから。
いや、誰もそんな事望んでないのよ?思い込みなのよ?
でさ、ある時、私が通っている格闘技ジムの選手が、ベルトに挑戦する試合があって、ぜひぜひ見に行きたい、応援したい!だったんだけど、やっぱり日曜の夜な訳よ。おそらく試合が終わって2時間くらい経って「勝ちました!応援ありがとうございました!」って選手のツイッターが更新されたのを、溜息をつきながら見ていた次第。
夫は、私が「行きたい」と言えば「行けば」だけど、別に世直しが自分の仕事と思ってる訳じゃないから、私が悶々と嫌な目つきをしながらため息をついていても、「格闘技の試合、見に行きたかったんだね。行っておいで」と、私の行動まで決めることはしない人。
いや、思いましたよ。私がこんなに我慢して「試合見に行きたい」オーラ出してるんだから、気づけよ!って。空気読めよ!って。だって、私、自分から「ワガママ」を言うのは禁止されて来たから、相手から「xxする?」「xxしていいよ?」ってオファーがないとダメなんだ。自分から「これがしたいです」って言えない!言えないんだから、私が相手の気持ちを汲み取って言えずにいるんだから、そっちも汲み取ってくれよ!!バカのつるべ落とし。
で、ベルトを取ったら、当然、防衛戦があるよね。
だから、ある日、夫に「ジムのxx選手が今度防衛戦で、応援に行きたい」って、そりゃもう、清水の舞台どころか、宇宙服なしの宇宙遊泳くらいの気持ちで言ったよね。自分の中で罪悪感があるから、何ならその選手がどんなに練習を頑張っていて、今度の防衛戦は絶対に勝ちたい試合で・・・みたいな「言い訳」まで用意してたわよ!
夫はサラッと「行けばー?」。
即答。秒殺。
何故か猛烈に腹が立つ私。
私が!こんなに!我慢してきて!今!必死の思いで「行きたい」と言っているのに!そんな薄いリアクションなのか????
ワケ分かんないでしょ?
そこは「うん、行ってくるね!ありがとー!」って言う場面だ!(何なら「ありがとー」なんて言わなくて、「行きたい」じゃなくて「行ってくる」って断定する場面だったかも知れない)
そして、試合当日。行けば行ったでソワソワする私。応援する選手の試合までは観たけれど、メインイベントの試合も見ずに帰る。
何で帰ったのか???
それは罪悪感。
夫からいくら「行ってくれば?」と言われても、私の中に「妻は家にいるべき」っていう思い込みがあれば、当然、「行くべきじゃないのに外出している」という罪悪感でソワソワするよね。そして「夫が家にいるのに外出するのはなー」なんて言われる夫もいい迷惑。私は知っている。夜に私が出かける時、以前は「ちゃんと」晩メシを用意していたけれど、最近は「あ、自分でどうにかするからいいよ」と言っていて、それじゃあってんで外食なり買ってくるなりしてもらうようにしたのを、実は夫はむしろ密かに喜んでいることを!たまに食べる外食(つっても、ラーメンチャーハンとかそんなの)や、自分で好きに買うコンビニ飯がワクワクすることも!ナポリタンとカツカレーみたいな、炭水化物x炭水化物って、美味しいよね!うん、知ってる!私はレジ前のから揚げ推し!
なーのーにー。
私の頭の中では理解していても、身体付近がザワザワするのね。「お前は自分の本分を果たしていない」「するべきことを放棄して格闘技なんか見に来てる場合?」「日曜の夜は家にいるべきじゃなくて?」等々、私の中で罪悪感が集まってミーティングしてる!
もうね、これは夫の許可とかじゃなくて、私の中の問題なんだよね。
・・・って、何回か試合を見に行って、とりあえずは「日曜の夜に外出」「その時は晩メシは自分でどうにかしてもらう」はクリアしたつもり。

でもね、1個だけ何かクリアしても、問題はもっと根深いのでした。

ここんとこ、ずっと頑張ってきた格闘技の練習(ちなみに、2年半やってても、あまり上達していない模様)がね、なんかつまんないのです。
ツマンナイって言うと「練習は楽しいばかりじゃない!」って言われそうなんだけど、そうじゃなくて、積極的に重い気持ちになるっていうか。
金払って時間かけて重い気分になるって、どんな罰ゲームよ?
その時は苦しくても「上達したい!」とか、何かそういうモチベーションがあるから続く訳じゃん?なんかモチベーションがダダさがっている。
ちょうど、足が故障気味だし、休んで色々考えてみた。

ああ!
やっぱり意味のない思い込みだったわ!
(゚∀゚)

あのね、私と同年配の女性で、とってもやる気がある人が同じジムにいるのね。
彼女は、アマチュアの試合を目指して頑張っている人。私は「上手くなりたい、技を綺麗にキメられるようになりたいけど、痛いのはイヤだし試合はもっと上手くなってから考える」ほう。
で、なんか私の中に「試合に出るくらい強くなる気配を見せて行かないと、ジムに居られない」という思い込みがあったわ!
たぶん、ジムとしては、やる気がある会員よりも、会費だけ払ってる休眠会員のがありがたいはずなんだけど(経営的にね)、トレーナーさんから見たら、やっぱり、やる気を見せる人のほうが良くない?
私、超やる気を見せて行かないと居場所がない・・・?
・・・という思い込みがあってですね、何となく、自分のペースじゃなくて、その「頑張っている彼女」のペースに合わせて練習をしたりしてたのでした。最初は、まだ「そのうち試合に」って感じだったから、私もちょっと背伸びすれば良い程度だったんだけど、最近はガチで「そろそろ減量」とか「走り込み」とか言ってるし、何なら朝と夜の二部練習やったりしてるから、どう考えても私のペースと合わない!
でも、無意識に「あれくらいやらないと自分には居場所がない」って思いこんでるから、彼女の練習(対人とか)にも付き合うし、あんまり気が乗らない「試合に出たい人が多いグループレッスン」も出る。
・・・そりゃあ気も重くなるよね!
よくよく考えたら、その彼女だって、別にやる気もないのに練習に付き合う私とかって、ある意味いい迷惑だろうし、別にそこまでやるつもりがないなら付き合う必要もないはず。そもそも、強要されている訳でもない。なのに、自分のせいにされたら迷惑だよね!「え、やりたくないなら別に・・・」って、私なら困惑する。
まぁ、場所が場所(格闘技ジム)だし、練習の目的が同じような人が固まる傾向はあるし、だから、「目的が違う」って思ったら彼女と疎遠になる事だってあり得る話。
なんつーか、別にそこまで彼女に強い気持ちを持っている訳でもないのに「疎遠になるのもなー」って無理されるのも、すっごい失礼じゃん?

言い訳するつもりもないけど、私も含めて、毒親育ちの人って、どうもこう、他者との距離感がアレな人が多い気がする。しかも、そこで「あれ?」って思えばいいけど、代わりに何故か謎の万能感でもって、自分の距離感を絶対視してキレる人も、多い気がする。統計とったワケじゃないから、単なる個人の感想だけど。

でさ。トレーナーさんだって、仕事でやってる訳だから、そりゃあ熱心に通う人には目もかけることはあるだろうけど、だからっつって「試合を目指さない奴は許さん!」みたいには、普通はならない。くどいよーだけど仕事だから。
百歩譲って、仮に「あんまりやる気ないみたいだし、痛いのヤダとか言って試合も出たくないらしいし、何なの?」って思われたとしても、まぁ、それはそのトレーナーさんの考え方だよね。もちろん、試合に出て勝っていく気概がある人の方が教え甲斐があるだろうなとは思うよ?
でもさ、だからっつって、私がそこで「じゃあ」ってなるのはどうなの?
それこそ「他人軸」で選択してるってことじゃん?
トレーナーさんから良く思われたいから。
友達が試合を目指しているから。
だから自分を合わせる?
たぶん、そんな事をされても相手は嬉しくない。
どっちかっつーと「いや、貴方がしたいようにして?」って、責任転嫁されるよーで迷惑。たぶん。
(そもそも、プロの養成だけやってるよーなジムは、無いワケじゃないけど、最初から「会員」じゃなくて住み込みとかの「練習生」を募集するね!)

なんかね。
幼児期に「周囲の期待を読み取って、その期待をあたかも自分の意志であるかのように自分の中に取り込む」ってことを習慣にしちゃうと、自分がどうしたいのか分からなくなるよね。
だってさ、自分が本心から「したい!」ことを表明すると「ワガママ」って言われて「そんな事じゃこの先、生きていかれない」って断罪されちゃうんだよ?
だったらさ、他人の期待を「自分のもの」って思いこんでおいた方がラクだし、リスクが少ないじゃん。
ただ、そういう状態のまま、正常な世界に出ていくと「なんか、何がしたいんだかよく分かんないけど、放っておくと迷走を始めて、挙句、人のせいにする厄介なやつ」の一丁上がり!
私が逆の立場だったら「いや、別に強度の高い練習をする必要はないし?」って思うし、「別に試合に出るつもりもないなら、痛いこと(スパーリングとかですね)しなくても良くない?」だし、頼んでもないのに練習に付き合った挙句「なんか気が重い」とか迷惑だし。
でもね、それが思い込みの怖いところで、なんか「そうしなきゃ」って、頭じゃなくて体感がそう言うのよ!気が重いくせに練習に出ないとソワソワして「だって体調が悪いもん」とか言い訳をさがす。
しかも、自分より強度が低い練習しかしてない人を「ふーん」とか、ちょっと見下したりしてね。すっげぇやな奴!

じゃあ、仮に、罪悪感に突き動かされるままに、他人の気に入る(と妄想している)ように動いて行ったら、どうなるのかしら。
マチュアで試合に出るじゃん?
勝たないと意味ないよね?
んで、勝てば勝ったで、今度は、プロじゃないと意味ないよね?ってなる。
そして、(年齢的に体力的に無理ということは無視して)プロになったと仮定して、勝たないと意味ないし、最終的にはベルトを取らないと意味ないね!ってことになる。
・・・それってさ、楽しい?
自分をそこまで追い詰めて、でも、別にそれが自分のほんとうにしたい事じゃなくて、妄想の中で思い込んだ「自分が期待されている」ことじゃん?

この妄想のタチが悪いところは、「妄想」自体が的を射ているならまだしも、全然見当違いな事が多いこと!
親子だったら、同じ環境で生活しているという背景があって、考え方を読んでいくのは比較的容易。だけど、生まれも育ちも資質も全く違う相手の考えを読むなんて所詮は不可能で、じゃあ、何をしているかって言うと「相手を読む」と称して、勝手に自分が考えた「相手がこう考えてるかな?」っていう、あくまでも自分の背景というか脳味噌でしか想像し得ない範囲で作り上げた何かを捏造して「これが私に期待されている事!」なんて思いこんじゃってるだけだよね。
結局は自分の脳内で妄想できる範囲は出られないから、相手が期待していることの真逆を「期待されてる」って思ったりするなんて朝飯前!
「部屋の模様替えは自分で好きにやりたいから、妻にはむしろ他所に行ってて欲しい」夫に、「家族が何か作業をしているときは手伝うべきだし、自分一人だけ好きなことをしてるなんて許されない」環境で育った私としては、「ああ、これは手伝う案件だよね」って、「何か手伝うよ?」ってグイグイ行っちゃったりするという悲劇が起こったりするわけです。だって、夫が作業してるのに、私が何かしない訳にいかないじゃん!別にいいって言われても、落ち着かないじゃん!
私の脳内の妄想が私を責める!!!

失ったものは大きいよね。
自分で考えて、本当に「したい!」と思った事は何だったのか。
そして、自分の狭量な「常識」で失った人間関係の重さ。
(あ、妄想を抜いても「これは許せねえ!」ってことはあるよ!)
取り返しがつかない。

まぁ、気が付いたところで、すぐに「はい、自分の考え~~~」って自分軸が取り戻せるわけでもないので、少しずつ、自分の違和感を大事に、軌道修正をして、最期は「ああ、楽しかった」って一生を振り返りたいのよ。

ちなみに、私は筋トレを楽しいと思ったことは1ミリもないけれど、正しくやればそれなりに結果はついてくるので、その「結果」に惹かれて「筋トレ・・・好き。尊い」って思っていて、なので、たぶん筋トレは期待されているからじゃなくて、本心から好きなんだろうと思うの。

さて、まずは、お腹のあたりの違和感というか、要するに空腹を満たすために、心と胃袋が欲している「ベーグルにバターを乗せたやつ」を食べてきます!
休日の朝にブログを書き始めると「書き終わったら何か食べよう」って思いつつ書くので(馬を走らせるための人参とも言うね!)、午前の遅い時間まで空腹と戦うことになりがち。

ところで、私「自分軸」っていう言葉はあまり好きじゃない。
なんか具体的じゃなくて、きちんと定義されてないのに、何か正しいこと言ってます!的な顔をしているように思えるから。とりあえず「自分軸」って言っとけば正解!みたいなね。よく分かんないけど、この綺麗な言葉を出せば、消化はできないけどつるっと飲み込めるよ!みたいな嘘くささをはらみかねない言葉のような気がする。
イメージはしやすいと思うんだよね。
自分。軸。
人に直線が通っていて、だから強固に動かないイメージ。
だけど、じゃあ、その「軸」の本性は何かとか、その辺は曖昧。
曖昧なきれいごとっぽい。
まぁ、私の妄想なんですが。

でさ。
「ワガママ」という称号を異常に恐れて生きてきたけど、よく考えたら、ワガママってのは自分に忠実というか、自分が何を欲しているか分かってる訳じゃん?違う?
私に足りないのはその部分。
なんつーか、「ワガママ」にすらなれない私というのは、筋肉を含めて外側は強固で立派なのに、中身がスカスカな気がする。圧倒的にワガママが足りない!
ワガママも、それを貫けるくらい強い何か、モチベーションと言ってもいいけど、そういう突き上げるような衝動があっての「ワガママ」なら、それに賭けて悔いはないだろうと思うのよ。知らんけど。(「スピ系の教祖がそう言ってたから!」とか「xxさんを見返したかったから!」みたいのは、自分の頭で考えてないと思うけど、でも、まぁ、他人のことは放っておく。最終的に自分のケツを拭けるのは自分だけだし。)
父が私に「ワガママ」と浴びせかけて憚らなかったのは、恐らく、彼の中で「集団の同調圧力に屈していく生き方」が正義だったからなのかも。

よし、令和はワガママを第一義に生きよう!
╭( ・ㅂ・)و̑̑ 

今でも後悔していること

 桜って、咲くときは「GW並みの暖かさ!」とかそんな感じなのに、いったん咲いてしまうとなんか寒くならない?釣った魚に餌はやらない的なやつ?多分違うけど。
・・・そんなしょーもないことばっかり考えている、日系三世のNicky黒井です、おはよーございます。

 さて、糾弾する記事ばっかりが続いていますが、今日は珍しく、私が今でも後悔していることを書いてみます。
 卑怯者というか、少なくとも、勇敢でも親切でも誠実でもなくて、たとえその問題に私が立ち向かわなかったとしても、もうちょっと何かできたよね?というお話です。
 英語で「You could have done better」、もうちょっとマシな事できたんじゃね?って言う感じ。

 私が高校生で、留学から帰国した年に、私が通っていた高校に留学生が来ました。
今から5年以上前の話よ?
 まぁ、帰国したての高校生なんて、親の転勤とかじゃなくて自分で「海外に!」とか思って行った訳だし、もう、英語なんて喋りたくてしょーがない訳です。私だけかもだけど。ほら、このままだと英語忘れちゃうかな?みたいな不安もあるし。
 で、クラスは違ったんだけど、その留学生と、選択授業が同じだった時間なんかは、話したり何だり、それなりに仲良くなったのでした。
 でも、まぁ、クラスも違うし、そっちのクラスでも仲が良いグループなんかもできてたみたいだし、現地(日本)に溶け込むのが一番だから、私が英語であんまりちょっかい出すのもなー、なんて、ある程度の距離は保っていた記憶が。これは、別に、私が偉いワケでも何でもなくて、やっぱりさ、イヤらしいじゃん。「私、留学帰りでーす。英語話せまーす!」丸出しなのって。なんつーか、「え?そこまでガツガツしちゃう?」みたいな?ほかの留学生の現地での体験の機会を奪ってまで自分が英語はなしたい?だったら金払って英会話学校でも行けよ・・・みたいなね。羞恥心まで行かなくても、「留学帰りあるある」みたいのと「私は違うから!」みたいな、変な自意識が働いていたんだと思うの。どっちがイヤらしいかって話だよね。
 あと、留学中に「日本に興味があります!」的な人が来ることがあってね。それ自体は、まぁ、有難い話ではあるんだけど、度が過ぎると、「いや、私、別に日本語と本邦の伝道に来たわけじゃなくて、むしろ、この国のランゲージをスタディしにきたのよ、アンダスタン?」みたいな気持になったりして。
 だから、日本の事を学びに来た人は、日本に浸るのが一番だよね!

 余談ですが、留学帰り、それも高校で留学とかすると、当時(プラザ合意のころですな)は、「お高く留まって変な人」とか「一年くらいどっか行ってたからって随分エラソー」とか、そんな受け止められ方も多くて、帰国した側も「自分は特別な体験してきたし?」みたいな頭が高いっつーか、他の生徒をちょっと見下した感じだったりして、どっちもどっちなんだけど、その後、あんまり素敵な人生を送ってる人を見たことがなくてね。
 ほら、海外に行っても別に受験英語ができるようにはならないじゃん?んで、「別に(科目としての)英語もできる訳じゃないのに、なんか会話に英単語挟んできて、ジェスチャーも大袈裟だったりして、バカじゃないの?」みたいな見られ方をする人も多かったりして(そりゃ、会話中に「ア、ハーン?」なんて相槌打たれても困るし、「レイディオ」とか「キャーメラ」とか言われてもギョッとするよね)、本人は「私を特別に見て!」な気持が強すぎて、空回りしたりして、しかも、学校の科目としての英文法や英作文(文法的な正しさと、難しい単語力を問われるやつ)は一向にできないし、本人が思っているような「英語ライフ」じゃなくて、「一年どっかに行ってただけの、ただの変な人」になってる事も正直多かったように見えるのよ。(ちなみに、ガチでネイティブ並みに英語を話せるような帰国子女とかは、日本に溶け込もうとめっちゃ努力をするから、案外、わざわざネイティブ発音をひけらかしたりしない気がする!多分、駐在員の子弟なんかは、親から、「教育を海外で受けても、お前が生きていく場所は日本だからね!」って叩きこまれたんだと思うけど。あと、海外に行った体験「も」持っている人なのか、その体験「しか」持ってない人なのかという違いかもね。100パーセントSOかもね!)
 実際、話せるって言っても、所詮は高校生の日常会話レベルでしかないから、そこから真面目にブラッシュアップして行かないと、いい大人になってからも、「高校生の時に一年間留学してました」だけが心の拠り所で、実際の英語自体は留学時から一ミリも成長してない人になるリスクがね、高いのよね。むしろ、思い出の中に生きてるから、英語は忘れちゃって話せないし、自分で思ってるほど「英語ができる」訳じゃなくなってたりしてね。それだけが拠り所なのに、その拠り所自体が歳月と共になくなって行ってて、気が付いてないのは本人だけという悲劇!悲劇、惨劇!
 結構そういうのいっぱい見てたから、明確に意識はしていなかったけれど、漠然と、「留学してましたー、だから何?みたいな大人になりたくないなー」って思ってたわよ。生意気ね!
 でも、居るじゃん、貴方本人には特別な体験だったかも知れないけど、現在はだからと言って、特に何もない人になってるって分かってる?みたいな人。ドルが360円で固定相場だった頃ならいざ知らず、海外に居たって、別に特別じゃないというかね。大昔は、海外に行くことができるってそのこと自体が「大した事」で、それが出来る人は、当然、能力とか資力とか、何かを持っている人だったわけで、だから、海外に行くってことは、何かを海外で成し遂げることが出来ると同義だったわけよね。
 翻って、現在は、別に海外に行っても、それ自体は能力の証にもならなければ、資力云々でもない。下手すると「日本に居場所がなかったのかしら」なんて言われかねない。

 
 それはさておき。
留学生。

 あのね、ある日、休み時間に廊下であったら、なんか元気がないのよ。
どうしたの?何かあった?って聞いても、大丈夫って言う。

まぁ、本人がそう言うなら外野は黙ってるしかないよね。なので、何かあったら言ってということでその日は終了。
 で、翌日の選択授業で一緒だった彼女のクラスメートが「あの子ってワガママだよね」みたいに言ってるのを聞いた。なので、詳しく聞いてみる。
 いわく、クラスで何かを話し合ったりすると(文化祭のアレコレとか)、めっちゃ意見を言うらしい。あと、休み時間とかに誰かが例えば「学食でおやつ食べない?」って誘っても、自分が興味ない時は「私はやめとく」みたいに、誘いに乗ってこない。
 要するに、空気を読まないというか、周囲に合わせるよりも自分の意思を優先するという話。
 それだけだったら、まぁ、「日本だと、同調圧力があるよね」な話で、そこを受け入れて、あるいは、咀嚼してこそ異文化交流だっつー話なんだけど。
 事件は、社会科の校外学習の時間に起こった!
 校外学習で、電車に乗った時に、彼女がぽつんと一人でいたので、社会科の先生が気を利かせたつもりで、彼女に「一緒に座る?」って聞いたらしい。で、彼女は、そこまで「誰かと一緒に居ないと死んでしまう!」な人じゃなかったし、「別にいいです」的に断ったらしいのね。んで「なんで?一人がいいの?」的に食い下がった教師に、別に一人が良いのって理由じゃなくて習慣というか気分というか、説明できるものでもないし、冗談で「先生が嫌いだから」って言ったと。
 ええと、ここで私が「冗談で」と断言してしまうのは、一つには、後で本人から「冗談のつもりだったんだけど」と聞いたのと、あと、本気で相手が嫌いだった場合って、殴り合い上等!とかじゃない限り「嫌いだから」みたいなニュアンスでモノを言わないじゃないスか。どっちかっつーと、もうちょっと逆にオブラートに包むじゃん?「貴方のxxが私の嗜好に合わないので、これはお互いにとって不幸だけれども、一緒に居ないほうがお互いのためだと思料する」みたいに。そして、彼女本人の普段の発言も、お国柄というか、冗談が多い人だったのと。その辺から、私も「冗談で言った」というのは、その通りだったと思うし、今でも信じているのでした。

 駄菓子仮死!
 異文化は、すげぇチヤホヤするか、じゃなかったら排斥するか極端な二択に走りがちな本邦の島国根性というか、素朴な人間性というか、その辺が災いして、既にちょっと「ワガママ」とか陰で言われていた彼女が「校外学習の時に、先生に凄い失礼なことを言った」という話になってしまったのでした。
 まぁ、アレだよね、普段べつに全然年長者を敬ってなくても、何なら教師をクソミソに言ってたとしても、突然、儒教道徳に目覚めるよね。そして「ガイジンは教師を敬わないとんでもない人種だわ」とか言ったりするよね。授業なんか1ミリも聞いてない生徒もいきなり優等生になっちゃうよね。集団の同調圧力は、外にいると「怖い」けれど、その中に入っちゃうと、無条件で連帯感が生まれたりして気持ちいいよね。安心感があるよね。受け入れられた感があるよね。思想の右左を問わず。ハイル・ヒトラーから大日本帝国万歳から万国のプロレタリアよ団結せよ!まで。

 で、ある日、留学生本人から、「冗談で『先生が嫌いだから』って言ったら、なんかすごい事件になってる。どうしよう」と相談されたのね。私も経験があるけど、異文化で意外なところから流れ弾が飛んでくることって多いよね。すごいビックリする。

 私も別に、日本を知り尽くしていて、方法は任せておけ!って感じでもない。そりゃそうだよね、日本人だからって日本人をコントロールする術を知っている訳じゃないし、そんな事があったら、ネット炎上事件も起こらないし、思想も統一されているはず。
 で、無い知恵を絞って、彼女が「明日の朝のホームルームの時間に、クラスメートの前で釈明と謝罪をする」という事に落ち着いたのでした。冗談のつもりで言っちゃったけれど、先生に対して敬意を欠いた表現になったので、ごめんなさい・・・みたいな。

 ここからが本題だ!

 ねぇ、貴方ならどうする?
 ある程度話せるとはいえ、異国で、クラスメートの前で釈明と謝罪するって言っている友達に対して、どうする?

 私、これはとっても卑怯なことだし、今でも後悔してて、ほんと恥ずべき事なんだけど、友達を見捨てて自分だけ安全圏に逃げました。

 翌日のホームルームの時間、あっちのクラスでどーなってんのかなと思いつつ、でも、あんまり余計な事をして、しゃしゃり出た自分がハブられてもやだし、彼女は自分で何とかするよね!って、放置しました。
 だって、彼女は半年間が終わったら帰国するけど、私は卒業までこの学校に居る予定なのよ?それまで、クラスメートとも、ほかの選択授業で一緒の人とも、上手くやって行きたい。
 ガイジンの失言の尻拭いに付き合わされるなんてリスクは取りたくない!
 てめぇのケツはてめぇで拭けってことですな。


 ねぇ。それが友達なの?

まさかの友は真の友って言うじゃん?
友達の窮地に、敵前逃亡キメちゃう?
エラソーな事を言ってても、所詮その程度なんだよね。

 なんていう、脳内の自分の良心のツッコミを「安全第一」と振り切って、その日は、彼女を避けるようにして、何となくそのままにしたのでした。
 

 その後、少なくとも表面上はクラスメートと平穏な日常を取り戻して、彼女は帰国して行ったけど、私は、友達甲斐のなかった自分を、今でも許せません。
 いや、別に、そのクラスの人々の前に立って「異文化って」とか「あの国の文化として冗談っていうのは」とか、そんな事をしてヒーローになれって話じゃなくてね。
 そうじゃなくて!
 辛いときに、何で、背後にドーンと控えて、彼女を支えられなかったのか。特別な事をしたり、私が矢面に立ったり、彼女の分まで「混乱の処理」をするとか、そういうんじゃなくて、理由とか背景はおいといて、彼女が「自分でやらかした事の落とし前を、自分なりに考えた方法でつける」時に、何故、私が味方だって彼女にハッキリ言えなかったのか。
 大親友でもなかったから?
 そんなのは理由にならないよね。

 ハッキリと敵よりも、こういう、味方のフリしといて、いざって時に全然頼りにならない奴が、一番始末に負えないよね。
 
 あの後、ずっと、じゃあどうしたら良かったのかなって考えていて。
 たぶん、私も自分のクラスの担任に事情を話して、彼女のホームルームに立ち会って、雰囲気があまりよくないようだったら「あの国の冗談文化」について、ちょっと私が実際に日本人として体験してきたことを話すとかで、「冗談だった」ことの補強材料を提供するべきだったかなとか。
 いや、彼女はもしかしたら、アテにならない奴をその時点で分かって良かったじゃんとか。
 でも、もっと上手に立ち回って、仲介役じゃないけれど、少なくとも何らかの理解へのヒントを出す事くらいできたんじゃないのか。
 保身って言ったって、私はクラスも違うし、あのクラスで何か言われたとしても、保身の必要すらなかったかも知れないじゃん。 
 ちなみに、私の在籍してたクラスは、男子が2/3という男子クラスで、帰国生に対しても、別に「えー、そうなんだ、留学してたんだ!」って程度で、サラッと受け入れてくれていて、あまつさえ、学期途中で帰国した私を「年上だし」という意味不明な理由で、学級副委員長というポストを用意して待っていてくれたような所でした。(委員長と、もう一人の副委員長は忙しいポストだったけど、二人目の副委員長は盲腸と言われるような「あってもなくても困らない」ポスト。どっかの委員会とかに嵌め込まないといけないので、副委員長ね!って決まっていた模様)
 ね?私が何かを怖がる必要なんて、なかったじゃん?

 って言うか、独りよがりで「これをして『あげよう』」「こうすればよかった」じゃなくて、彼女に「明日のホームルームの時に、私に何かできる事は?」って聞けばよかった。そして、ひっそりと「友達だよ」って言えたらよかった。
 単に「頑張ってね」じゃなくて。
 そうやって、背中を向けるんじゃなくて、必要ならそばにいる覚悟をすればよかった。
 大した事はきっと期待されなかっただろうし、でも、例えば、四面楚歌の中で、一人でも自分を向いている人がいるっていうのは、どんなに心強いことか。私のよーなヘタレだけかもだけど。それも、皆の前でじゃなくても、こっそりでも、「応援するよ」って言ってくれる人が居たら、人生はどんなに生きやすいものになることか。

 そして、当時は頭が回らなかったとは言え、それをしなかったのが私だ。

  友情についての歌とかあるじゃん?
 Queenの「Friends will be friends」とか、ディオンヌ・ワーウィックの「That's what friends are for」とか。古いやつばっかでごめん。
 まぁ、歌詞って理想論とか綺麗事だってのは分かってるけど、でも、一貫してるのは「どんな時にも、貴方のそばで見守る」とか「貴方の側にいる」とか、そんな感じじゃん?
 翻って、私は、友達を名乗る資格なんてないよなぁ。
 その程度の覚悟すらなかったんだもん。
 「誠実ではない友があるよりは、むしろ、敵があれ」って、シェークスピアも言ってるじゃん。

 もうね、取り返しはつかないし、仮に私が例えばFBなんかで彼女を見つけ出して「あの時は」なんて言っても、単にそれは、私が自分の良心の呵責から逃げたくてする謝罪だから、もう一つ別の重荷を彼女に丸投げすることになるじゃん。

 という訳で、別にオチも何もないのですが、そして、彼女はどう感じていたか分からないのですが(案外、「別に一人でサクサクできるし、そばにいて欲しいとか思ってもなかったし?」って感じだったかもしれない)、自分が、自分の良心と正義に背いたことは、自分が一番わかっていて、この先も、それを背負っていかないとならない。
 せめてできる事と言ったら、これから先の人生において、自分の良心と正義に忠実であることだよね。

 できるのかなぁ。
 例えば、ヘイトクライムとか差別的な事件なんか、全世界的に増加の一途じゃん?特にトランプ政権になってから。本邦でもそういった傾向はあると思うんだけど、声がでかくて怖い人々が理不尽な差別を声高に叫んだ時に、理不尽な烙印を背負う覚悟で、何なら自分が害されるかもしれない可能性を背負う覚悟で、自分の正義と良心に忠実でいられるのかな。
 仮に当事者じゃなくても、それでも、それが正義と良心に反する限り、戦えるんだろうか。私にできるのか。その覚悟があるのか。
 死ぬときの後悔は、卑怯者であったことと、リスクを背負ったことと、どっちが大きいんだろうか。(だいたい、良心に殉じた人なんて、ヒーローは一握りで、99パーセントは犬死だからね)
 
 それでも、少しでも良心と正義に忠実でありたい。
 そのためにも、そんな大きなことじゃなくても、日々の小さな「自分の良心と正義」にもっと敏感で誠実であろうと思うのでした。

 んー、なんかエラソーでごめんぬ。
 要は、ゴチャゴチャえらそーな事言ってるけど、私、卑怯者でした!って話よ。

ブス言うな!

はい、昨夜ノリノリで記事を書いていて、途中で夕食で席を立って、戻ってきたらWindowsのアップデートか何かでメーラーもブラウザも閉じられていて発狂しそうになった、日系三世のNicky黒井です、どーも!
つか、そこ、勝手に閉じる?
閉じていいか聞いて、返事がなかったら待つとかしない?
私が風邪で寝ていた時に、玄関でピンポンして返事がなかったらドアをガチャガチャやった宗教の人と同じレベルやぞ!

つらつらと思い出しつつ書く。
同じようには書けないし書く意味もないけど、書く。
書ッけるッかな 書ッけるッかな はてはてほほ~~~♪

で、今回は「ブス認定について」。
はい、この中で、親からブス認定されてた人、手を挙げて~~~!
私だけ?
ぜったい他にもいるでしょー?
ほらほらほらぁぁぁぁぁ~~~~。

はい、私は親からブスと言われて育ちました。
それもね、普通に「お前はブスだ」って認定じゃなくて、もうちょっとトリッキーな感じで、教育的指導というか、正しいことの文脈に入れてサラッと認定されてたのよ。
直球で「お前はブスだ」って言ってたら(えらい剛速球ですが)、「それはルッキズム(容姿至上主義)だ」とか「子供にそんな事言ったらダメでは?」とか、たしなめる事もできるんじゃないかと思うんだけど、教育的な指導に「お前はブス」を挟んでくるのね。
サブリミナル効果?(違)
いや、どっちかっつーと枕詞として使うって言うほうが正しいかな。
でも、教育的指導に混ぜて使われると、誰もツッコミを入れられない。
何故なら、文脈自体は「正しいことを言っているから」。
混ぜるな危険。
そして「正しさ」という暴力。
まぁ、どっちにしても「ブス認定」なんだけどね。
ギネス認定!とか、そういうポジティブで華やかな認定ならいくらでも受けるけど、ブス認定はきついよね。
で、どんな認定かって言うとね。

「ブスに生まれついたのは治しようがないけれど、他人に愛想よくというのは努力で出来ることなんだから、せめて愛想よくしなさい」

要点は「他人に愛想よく」ね。

え?
単に「愛想よく」であって、別にブス認定じゃない?
だったら、普通に「人に愛想よく」って言っとけ。
それ自体は、別に間違った話じゃないからね。
反論のしようがない。
マリリン・マンソンでもない限り「他人に愛想よく」ってのは、異論の唱えようがない。それくらい正しいこと。正義。暴力。
なんでそこに「ブスは生まれつきだから仕方ない」と言うのか?
対比させることで、他人に愛想よくってことが強調されるから?
でも、それって必要?どうしてもブスを挟んで強調しないと伝わらない?
たぶん、ブス云々を挟まないと伝わらないなら、それは伝え方が稚拙だからじゃない?
そんな拙いレトリックしか使えないの?

って言うか、普通に「ブス」って私を定義することで、私を押さえつけたかったんじゃないの?
違う?
私はそう思うよ。

ブス自体は、別に犯罪でも何でもないけど、何をどう取り繕っても、やっぱりブスより美人の方が格上じゃん?
ブスという底辺に私を置くことで、キリスト教道徳的な「謙虚さ」「へりくだった心」とかを刷り込みたかったんだと邪推するけど、でも、そこまで傷つけないと謙虚になれないなら、それはきっと、謙虚さをもって生まれてこなかったって事だと思うし、「ブスに生まれつく」ことと同じく不治の病なんだから諦めたほうが良いと思う。
だって、結局、謙虚さは育たなくて、ブスという視点を内在化させて、消極的な性格を育てただけじゃん。意味ないじゃん。

んで、この論法の卑怯なところは、仮に咎められたとしても「別にアナタをブスとは言ってなくて、『仮にブスに生まれついたとしよう。それは不治の病なのであるからして、いかんともしがたい。然るに、他者に愛想よく振る舞うというのは、本人の努力次第なので、各員一層奮起セヨ』っていう話でしょ?」って言えちゃうところ。
取りようの問題であるとしたら、まぁ、「お前はブスだ」とも取れるし、「一般論として、ブスというのは不治の病なんだよね」って話に取れるかもしれない。
でもさ、仮に、一般論として・・・だったら、別に普通に「愛想よくしなさい」で良くない?なんでそこに「ブスは」って話を枕詞に置くかな。
まして幼児期からそれを言われてたら「ああ、私はブスなんだな」って思うじゃん?
本当に何かを伝えたいなら、「お前はブスだ」っていうことと、「他人に愛想よく」って事を分けて話そうよ。

あるいは、「問題の本質はそこじゃなくて、他人に愛想よくってところなんだけど?」って、まるで、揚げ足を取られたように傷ついたフリをすることだって可能だと思う。

だからこそ、たちが悪いと思うのよ。

結局さ、突き詰めて考えると、この文脈が内包しちゃってるのは、ブスに人権はないってことじゃん?
本来、人間が生まれながらに持っている権利(自然権)としての生存権「生きててオッケー」っていう権利を、ブスには与えられてないよ?って刷り込みでしょ?
んで、後天的に努力して他人に愛想よくすることで、初めて与えらえるってことじゃん?
つか、本来は自然権であるはずの生存権を「与える」とかって、ナニサマって話だけどね。
ブスは生きてちゃダメで、生きる権利はなくて、そんなもの、ブスであるがゆえに与えられていなくて、唯一、その権利を獲得する方法は、愛想良くすること。
容姿が優れた人は、逆に、生きる権利が生来与えられているどころか、別に愛想よくする必要もないと。
生まれつきだから仕方ないと言いつつ、容姿に優れていたら何もしていなくても与えられている権利が、ブスに生まれたばっかりに、努力しないと与えられないとしたら、それは差別でありルッキズムであり、ブスに対する死刑宣告でもあるよね。
唯一、恩赦への道は「愛想よくすること」?
生まれつきの属性によって、権利があったりなかったりって、どんな身分制度よ。江戸時代かっつーの。容姿の優れた人と一般の人には与えられる権利が、ブスに生まれついたがために、努力しないと与えられない。「ブス」という身分に生まれついたばっかりにぃぃぃぃ~~~~~~!!
それってひどくない?
全宇宙のブスよ、団結セヨ!

幼児期からそうやってブスブス言われて育った私ですが、小学校の時にね、同じクラスに、Mちゃんという、半魚人みたいな顔の子がいたんだよね。
でもね、Mちゃん、やたら自信満々で態度もでかい。
よく「この学年の男子はみんな私のだから」って言ってた。(小学生・・・)
一度、Mちゃんのお家に遊びに行った時に、Mちゃんのお父さんがいたんだけどね、Mちゃんにそっくりでね、で、もう心の底からMちゃんを可愛いと思っているのが、子供心に伝わってきた。
他の子に対しても面白くて優しいおじさんで、ほんと、「ああ、私、Mちゃんのお父さん好きだな」って思ったのを今でも覚えてる。
(Mちゃんは偉そうで意地悪なところがあったので、それほど好きじゃなかったけど)
やっぱり、小手先でどう言葉遊びをしたところで、子供は、親が自分の容姿をどう規定しているかということにとても敏感な生き物で、その影響は大きいと思うの。

で、ブスっていうのは主観的な話であって、だからこそ否定するのも難しいし、破壊力が大きい言葉だよね。
言うほうは、たとえ自分だってブスだったとしても、その破壊力を知っているからこそ、何かの時に「ブス」って、水戸黄門の印籠のように、最終兵器として使うワケでしょ?
上野千鶴子女史の書かれたものだったと記憶してるけど、女性がどんな実績を上げても、最終的には「でもブスじゃん」で破壊できちゃうって。男性なら実績と容姿は別物なのに、女性だと、全然関係ない所で「ブス」という評価で、その実績をなかったことにされてしまうと。
そして、その「ブス」っていう評価だって、別に主観的な話だから、単なる便利な凶器だよね。

私の場合、父は彫りが深いシュッとしたダンディさんだったけれど、母は顔面がかなり取っ散らかった部類の人なので、幼心にも「ああ、この人にブスって言われるんだから、私も絶対評価にしろ比較評価にしろ、相当なもんなんだろうなぁ」って思ってた。
ほら、全然格闘技とかやった事ない人に「ミドルキック、凄いですね」って言われても「うーーん」って思うけど、例えば、K-1で活躍しているゲーオ選手に「ミドルキック、イイネ!」って言われたら、マジで?超絶嬉しい!みたいな。
たぶんちょっと違うけど。
要するに、顔面が取っ散らかった人に「ブス」認定されるからには、そりゃあもう、格が違うというか、そんじょそこらのブスとは違うというか、筋金入りのブスだって感じ取るじゃん。

一度、姉が「お父さんはイケメンなのに、お母さんは顔面が取っ散らかってるよね。なんで二人は結婚したの?(意訳)」とか言ってたことがあって、ひぇぇぇぇぇ!って思ったけど、まぁ、私が心配したようなそれで傷つくようなタマなら、私にブスとか言わないよな。ブスと呼ばれる痛みを分かっているなら、何故、娘をブスと言うのか。
(ちなみに、美人は案外、他人をブスとか言わない気がする)いいぞ、ねーちゃん、もっと言え!
いや、美人にブス認定されるなら「そりゃあ、貴方に比べたらさぁ」って思うだけだけど、取っ散らかった人から「ブス」って言われると「え、この人からも認定されちゃうくらいなん?」って思うじゃん。ブスのブスによるブスへのマウンティング。
何という地獄絵図。

じゃあ、私は傷ついたかというと、それはちょっと違う。
自分がブスかどうかという自意識が芽生える前、つまり「自分と自分以外の世界」が分化する前に、ブスとはこういうモノである(私)と刷り込まれてしまうと、そこに疑問も発生しないし傷つくこともない。ひたすら、ブスに甘んじるというか、格差・差別を受け入れ続けるというか、公民権運動前の有色人種みたいに、そもそもの対等な権利を与えられていないので、生きるためには、生き延びるためには、ひたすら上位にいて生殺与奪の権というか、決定権を握っているモノに媚びへつらい自分を低めて、愛想よくと言われたら愛想よく居てやり過ごすしかない訳で。
傷つくというのは、少なくともフラットな、平面が出来上がっていた場合じゃん?「ブスと想定していない」あるいは「ブスかどうか保留」または「決定権が自分にある」状態ね。
保留も想定も決定権もなにも、世界が未分化なうちに与えられた役割以外の選択肢なんて考えもつかない「エデンの楽園で、覚醒しない状態」なわけ。
なので、当然、傷つかない。
傷つかないが、自尊心がまったく育たない。
当たり前じゃん。生存権も、他者からの評価で左右されるような「ブス」で、その「ブス」という状態は不治の病なんだもん。なんでそのままだと生存権すら認められないかっていうと「ブス」だから。生まれつきにより差別される存在、それが私!ってことでしょ?

それで自尊心が育ったら、そっちのが不思議だよ。

だから、自尊心が育たないより、(自尊心があるから)傷つく方が7億倍マシだと思うよ。

子どもでも、年がら年中ニコニコしてるなんて無理な話で、機嫌が悪かったり、仏頂面だったりすることもあるじゃん?
そうするとね、「美人だって仏頂面だったら魅力が半減なのに、ブスが仏頂面なんて、どうするの!」的な事を言われるのね。
んー。数学ときたか。
美人はプラスの部分が半減とすると、ブスだったら、やっぱりマイナス部分が倍増ってこと?美人は余剰分が減るだけで済むのに、ブスは負荷が増えるってひどくない?
もうさぁ、ブスって一方的に損ばっかりだよね。
ブスだから仕方ないの?

なんつって、親の思惑通り、無事にブスとしてのアイデンティティを獲得して生きてきた私ですが、そもそも、何であんなに「お前はブス」って刷り込むことに一生懸命だったんだろう。謎。
何度も親から言われるまでもなく、客観的事実として私は子供がいないので、娘をブス認定することに躍起になる親の気持というのがサッパリ分からない。
ただ、じゃあ、ブスブス言われて良かったかというと、そりゃあイヤだった。
別に、可愛いって言われたからブスが美人に変身するワケじゃないけれど(これも、たまには可愛いって言われたいと伝えたときに親から言われた。「別に可愛いって言ったからって美人になる訳じゃないでしょう?」って。)
うん、別にね、嘘をつけって話じゃないんだよ。
カトリーヌ・ドヌーブよりも、モニカ・ベルッチよりも美人!」って言ったら、そりゃあ嘘というか、本気で言っているなら審美眼が歪んでいるし、現代日本での通常の価値観の獲得に失敗しているからそっちを心配したほうがいい。
それを言えって話じゃなくてね、「貴方は私にとって可愛い」「私の宝物」とか、主観的事実として言って欲しいワケですよ。それって、想像もつかないこと?私、そんなに無理な話してる?
抑圧された層のエンパワーメントが脅威だった?
って言うか、別に、くどいよーだけど「自分にとって」可愛いというレベルすら難しかったのか?なんで?
ほんと、謎なんだけど、でも、要するにそもそも主観的にすら「可愛い」って思ってなかったから言わなかったんだろうなと思う。残念ながら。
たぶん、時代劇みたいな拷問にかけられても口を割らないというか、「可愛い」と言わないんじゃないか。

ここまで書いて、なんか結論めいたというか、オチが付かないんだけど、どうしましょう。

もちろん、人生を楽しむのに美人である必要はないし、正直、顔面が取っ散らかった人だって、別にそんな事を気にしているふうもなく、ウハウハでイケイケの人だってたくさん知っている。
だから、「ブスだからってクヨクヨしてちゃダメだよー」とか、「気の持ちよう」とか、そういう雑な話じゃなくてね。
自尊心が育つためには、「貴方は価値がある存在」って、繰り返し、言葉と行動で示されないとダメなんだなってこと。自尊心なんて放っておいても勝手に育つと思っているなら、それは貴方が傲慢すぎる。

今はね、さすがに外界と接して「出会いがしらに、散歩中の犬が驚いて痙攣する」とか「子供を連れて親が避難を開始する」ようなレベルのブスでもないんじゃないかとは思っているけれど、でも、やっぱり、心のどこかに「ブスに生まれついたのはしょうがないけど」っていう囁きが残っているよね。親からそこまで言われるほどのブスって言うのはさ、やっぱり衝撃じゃん?

もしかして、私、前世で美貌を悪用して人民を苦しめた妲己とか褒姒とかだったのか、じゃなかったら、美貌を鼻にかけて何か神の怒りを買うようなことでもして、今生はブスに転生して苦しむ道をたどってるんだろうか。

いやもう、一生分「ブス」って単語書いた気がするわ!
ゲシュタルト崩壊して、今後、私の中で「ブス」という単語は意味を持たなくなるのかなって思ったんだけど、相変わらず「ブス」は「ブス」として機能している様子。
はぁ。「ブス」はしぶといって本当ね!(☝ ՞ਊ ՞)☝

人の失敗を笑うということ

いっぱい寝たのにまだ眠い気がする日系三世のNicky黒井です、おはようっス。

今日は前振りも何もなしで行くわよ。

昨日書いた「失敗を恐れる」についてなんだけど、ちょっと辛くて書きたくなかったことを、追加で正直に書き足してみる。

えっとさ、この間、なんかバラエティ番組で「外国人の話す日本語の拙さを指摘して笑い物にする」ってのがあって、ネット上でプチ炎上してたじゃん?
私、人の300倍くらいよく喋るから、たぶん周囲からは「話す」ことにトラウマなんてないと思われてるんだけど、あのプチ炎上を見てて、ちょっと心が痛かった。
幸いにして、私が留学してた時とかは、周囲が良い人ばっかりで、ネイティブじゃない私の英語を笑う人とかは居なかったけど、幼少期にね、言い間違いとかすると、家族に笑い者にされた記憶は今でも辛い記憶としてなかなかに生々しく蘇るのですよ。
しかもさ、私の家族、それのどこが面白いのか私には全然理解できないんだけど、何年経ってもしつこくそれをネタにするよね。

例えばなんだけど、私、小さいころに図鑑を見るのが好きで、それも、「宇宙」とか「天体」のやつが大好きだったのね。
で、夕方に西の空に明るく輝く金星を「宵の明星」って言う・・とか、知識を仕入れると、使ってみたいのが幼児。ある時、夕方にとっても明るくて大きな星が西の空に見えたので「宵の明星だ!」と言おうとして「宵のミョウ」って言っちゃったのね。
もうね、鬼の首でも取ったのか、第三次世界大戦に勝利したのか、金脈か油田でも掘り当てたかってくらい、大笑いされたよね。母と姉に。
そして、夕食の席で、末っ子(私)が、どんなバカな言い間違いを、それも得々とドヤ顔でしていたか、母と姉は父に面白おかしく話すのでした。
まぁ、判断力のない子供だったので、姉は仕方ないにしても、両親のアレはなぁ。。。

しかも、それから後、何十年もしつこくネタにするのね。
それも「末っ子の可愛い言い間違え」じゃなくて「バカが知ったかぶりでドヤ顔で言い間違い」的なやつね。
例えばさ、海外出張で英語のプレゼンだ!とかなるじゃん?そーすっと「まぁ・・・宵のミョウとか言ってるような子が、そんな事できるのかしらねぇ。出世だわねぇ。(そんな馬鹿を海外に出すような)会社は大丈夫なのかしら」とか。
プレゼンと営業部隊の暗躍で新しい取引先獲得!ヒャッハー!とかなってると「日本語もロクにできないのにねぇ。もう、宵の明星ってちゃんと言えるようになったの?」とかね。
「しつこいんですけど」と言っても、「別に、何回言っても、貴方が虚栄心が強くて、知りもしないことを披露しようとした事は消えないでしょう?」みたいに、全然ひびかない。
父は父で、学歴コンプレックスが強いので、娘が外国語を話すこととか、大企業で働いていることとか、恐らく父より年俸が高いことが、対外的には自慢で仕方ないのに、対ワタシになると「いい気になるな!」という憤懣やるかたない気持でいっぱいになるので、全然関係ない時に「いい気になるなよ。日本語ですら言い間違いするのに、英語できますなんていい気になっていたら、どっかで足元をすくわれるからな」とか言う。
正直、何ができてもできなくても、こんなに貶される環境で育つと「私というレベルでは、社会に出てやって行かれない」って思いこんじゃって、ある時「え、って言うかさ、両親からはオマエは社会に出るには不合格、足りてない、社会に出たらヒドイ目に遭う!って散々言われてきたけど、社会に出てみたら、ワタシ程度のバカはいっぱい居て、堂々と生きてるよね」って気が付いた時の衝撃と言ったら。
ウォーター!
みたいな?
まぁ、だからと言って「私は、ありとあらゆる面で社会でやっていくには足りてない」という刷り込みが全部解けた訳じゃないんだけどね。

いやもう、幼児期(たぶん4歳くらい?)の言い間違い一つでこの騒ぎですよ!

なんでそこまで私を貶したかったのかは、今となっては永遠の謎なんですが、こう、揚げ足取りみたいな事ばっかりされてると、無駄に感受性が強い私なんかは、委縮しちゃって、「動かなければ、何もしなければ、間違うこともない」的に、消極的な性格を獲得して行ったのでした。

だってさ、割が合わないじゃん?
ちょっとでも間違うと、めっちゃ食いついて、永遠に嘲笑されるのよ?
そして、それをしていい根拠っていうのが「言い間違ったのは事実」なんだから、参っちゃうよね。事実かどうかって言われたら、事実だからさ。
もうね、「だって事実でしょ?文句があるならいつでもベルサイユにいらっしゃい!」って勢いなのよ。革命でも起きない限り、蹂躙される側は永遠に理不尽に蹂躙されるがまま、状況に甘んじて生き延びるしかないのでした。

まぁ、何が怖いってさ、リベラルな母なんかは、「外国人の日本語を嘲笑する」なんてことは、目を吊り上げて憤慨するのに、それを自分がやる時は、たとえ意見されても「だから何なの?間違ってるのは事実でしょ?」的に、相手(私)を傷つけることに躊躇しないことね。

これは一例で、私が生きてきた「日常」には、地雷がいっぱい埋まっていて、それが「言い間違い」だったり「親の意に沿わない事をした結果での失敗」だったりなんだけど、踏んじゃったら取り返しがつかないというか、自分に返ってくる理不尽の大きさが「目には目を」じゃなくて「目には目と鼻と耳と頭蓋骨と内臓全部!」みたいな感じというか、ほんと、緊張を強いられる人生の前半戦だったよなーと。

くどいよーだけど、子供なんて日常で言い間違えもするし、小さな失敗だってするし、何なら、子供じゃなくたって、毎日が失敗の連続じゃん?
大ごとな「失敗」じゃなくていいのよ。
なんか「ああ、やっちまったぜ」的なことなんて、いっぱいあるじゃん?
それが許されないと書くとカッコいいけど、「失敗」を責められるならまだしも、苛めっ子の恰好の餌のように作用して、私を傷つけて良い免罪符にされてしまう。
免罪符がいっぱい過ぎるっつーの!
毎日が免罪符!
博多なら明太子!
誰か、ルターを呼べ!
テッツェルを弾劾セヨ!(免罪符企画の修道士のおっさん)

そういえば、一度、appropreateのスペルが出て来なくて辞書引いてたら、母から「その程度(どの程度だよ)の単語も書けなくて、よく通訳翻訳ができるわよね。すごい心臓」って言われたことがあったな。
その言葉は、まったくもってinappropreateなんだけどね。

あ。ちなみに、彼女が「宵のミョウ」について言わなくなったのは、私が「そうやって私の言い間違いでしつこく私を裁くことで、貴方は最後の審判の時に、神の怒りと裁きを呼ぶよね」って言ったことと、中国語の先生から「人の言い間違いを笑うなんて、語学を勉強する人にあってはならない姿勢」って注意されたから。多謝老師。
(先生に会った時にサラッとチクったのは私です。)
外圧って大事ね!結局、「神」と「老師」の介入がなかったら、今でもしつこくネタにされているに200万ペリカ

追記のつもりだったので、この辺で。
チャオ―!(☝ ՞ਊ ՞)☝

失敗という名のリトマス試験紙

みんなーーーーー!花粉症で苦しんでるかーーーい!の日系三世のNicky黒井です、おはようございます。

もうねー、今年は目にきたね。
薬を飲んでいても目がかゆい。
夜間はできたら、目玉を取り出して綺麗に冷水で洗って、水に漬けて冷蔵庫に入れておきたい。朝、綺麗でヒヤヒヤの目玉を取り出して装着!みたいな。
スッキリすると思うんだけど。どうかな。山中教授あたりが研究してくれないかな。

さて。
占い師ブログはほったらかして、自分の過去を振り返ってどす黒い感情を書き出す日記に精を出していますが、何でこんなに筆が進むのかな。
書き出すまでは面倒なんだけど、書き出したら終わるまで一気にやらないと気持ち悪くて、デスクに釘付け。
で、今日のお題。
「失敗」について!

私ねー、まぁ、自分で「ここだけの話」とか書いても、周囲の人にはバレバレだと思うんだけど、失敗できないというか、失敗が怖くて、勝てる勝負しかしない、安全圏でしか活動できない、そういう所があるんだよね。
うん、ある。すごくある。
どうしてもだったら、陰でこっそり練習して、失敗しないようにする。
これってさ、地道に努力してえらい!って思われがちなんだけど、特に仕事の場面では厄介。「明日、プレゼンな!」ってなるじゃん?その場で一発勝負!ってできるようにメンタルというか肝の太いやつになっとかないと、「練習してないから無理」とか、就業時間を削って、あるいは、睡眠時間を削って練習しないとってなって、効率的じゃない。
失敗を恐れては何事も成し遂げられない!って言うじゃん?
だったら、何事も成し遂げないで、失敗しない人生のがマシ!って本気で思ってた。
たぶん、今もちょっと思ってるかな。
でも、人生の後半戦に入って、このまま、クソつまんない人生を送って死ぬなら、今、死んだように生きてても、死ぬのが30年後か今かの違いじゃね?とか思うのね。
ほんと、失敗なんて誰も気にしてないし、私の事なんて、誰もそこまで見てないはずなのに、でも、失敗できない。
だから、挑戦もできない!
格闘技やってても、だから上手くならない!
だって、昨日よりちょっとだけでも、自分の枠の外に出てないと、上達なんてしないじゃん?
とか、偉そうに書いてる本人が、その「枠」から出られないとか、笑かすよね。

何の話だっけ。
そう、失敗の話。

でさ、アメリカの大統領選に出馬して、初の女性大統領誕生か?って言われた、ヒラリー・クリントンいるじゃん?
彼女の自伝を読んでいて、娘のチェルシーについて(ローズ奨学金を取ったくらい優秀)「彼女には、自分で選んだ失敗をして、そこから学んで生きて行って欲しい」と書いていて、すごくビックリしたのね。
英語でmake one's own mistakeという言葉があって、自分で考えて何かをして、その挑戦が失敗に終わっても、そこから学ぶことは多いはずで、だから、どんどん考えて、チャレンジして、失敗をすることを恐れるな!みたいなことなんだと思うんだけど(違ってたら誰かこっそり教えて!)、考えてみたら、その通りなんだけど、そのときは凄く凄くビックリしたわ。
あれだけ頭脳も権力もある人(実際「アメリカでもっとも影響力がある弁護士100人」に選ばれたりしてたしね)が、平穏無事な人生とか、失敗しないように!じゃなくて、自分で考えて道を選んで、失敗もして、学んで大きくなって!って。
失敗して大きくなれって。
繰り返すわよ?
頭では「失敗から学ぶのはあり」って思ってて、でも、実際にヒラリー(親しげだな、オイ!)がそう書いていたら衝撃を受けた。

なんで?

そう、私は失敗が怖い女。

何で怖いかって言うとね
「親から、失敗を許されない人生だったから~~~!」
(チコちゃんの声で読んでね)

いや、失敗を許されないって言うとさ、めっちゃエリートの家系かなんかで、「お前は私立の進学校から東大、そっからハーバードMBA取って、ゴールドマンサックスで成り上がれ!失敗は許さん!」って事かと思うじゃん?
(ゴールドマンが成り上がるかどうかは別としてだ)
そういうんじゃなくてね。
どっちかっつーと、もっと細かいことね。
受験で第一志望に落ちたときなんかは、別に何もって感じだったくらいだし?
(あんな学費が高い学校、受からなくて良かったとは言われたけど!)

普通、子供って、大小色々チャレンジして、失敗して、でも帰る場所というか自分を受け止めて肯定してくれる場所があって、その安心感でチャレンジしていく大人としての成長度合いが育つらしいじゃないですか。

残念ながら、私は違った!
まず、失敗すると、その失敗そのものもなんだけど、「だから貴方は」的に何か言われる。そして、それがすっごい苦痛だった。
例えば、お皿を割っちゃうとするじゃん?
そーすっとね、「もう、不注意なんだから。だいたい、貴方は一事が万事、そうやって嫌々家の仕事(皿洗いとかな)をやっていて、当事者意識がないから、お皿の扱いも適当で(以下延々)・・・」とか、「そういう雑な性格って言うのは、もう、全てに感謝と謙虚さが足りてない証拠で、神の前にそんな不遜な生き方をしているって言うのは(以下延々)」とか「何でそんなに不注意なのか、言ってみなさい!」とか、いや、何で不注意かって、それは、原因と結果を混同しているよね。不注意で(原因)お皿を割ったにしても、何故不注意なのかなんて、本人が気が付かないところで何かがあるから不注意なんであって、理由が分かって割ってるなら、それは不注意じゃなくて故意だっつーの。
・・・なんて、子供のころの私には思えず、ひたすら、親からの説教という名の人格否定を、彼らの気が済むまで受け続けたのでした。
うん、そりゃあ、表面上の失敗を減らしたくなるよね!
って言うか、お皿一枚割ったら「だからお前は」って人格否定されて、そのまま延々とエンドレスでサンドバックになって、何度も昔の話を蒸し返されたりって、そりゃあ、お菊さんだったら当然化けて出るよね!(違

余談だけど、説教って、し始めると脳から変な汁でも出るのか、なんか同じ話を延々と繰り返したり、あと、「それは全然無関係では」みたいな話が突然出てきて攻撃材料になったり、「この程度の失敗でここまで言っちゃう?」みたいに「皿割ったら死刑」くらいの全然等価じゃない「ちょっとでも失敗したら万死に値する」くらいの勢いになったりしない?
あれは何なんだろう。
今までで一番びっくりした攻撃材料は「猫を飼う時だって親に相談もしなかった」って言われたやつ。
もう、結婚して別世帯だったし、世話も頼むつもりもなかったし(父が、自分は世界で一番動物を分かっていると思っている性格なので、猫の世話でも頼もうものなら、猫を外に放すくらいの事は絶対にすると思い、頼まないというかむしろ猫にはノータッチでいてくれと思っていた)、別に、猫が好きな人たちでもないし、事後報告として「猫を飼い始めた」という事実は話しても、別に「飼っていい?」って許可を取る筋合いの話でもないじゃん?
ただ、そう思っていたのは私だけだったらしく「親に相談もなく勝手に猫を飼って、お父さんもとってもショックを受けていた」とか言われて、いや、そこでショックを受けるって、何を理由に?って思ったけど、最終的に「親不孝」「世界は自分ひとりのためにあると思ってる」「傲慢」ってところに着地したよね。
飼いたいけど・・・なんて相談したら、それこそ、大昔(戦時中)に猫を飼ってた程度なんだから、ワクチンなんて贅沢だし、年次の健康診断も甘やかしだし、家の中で飼うとか「野生がなくて可哀相」だし、私のポリシーと真っ向から激突するじゃん。
(そもそも、1万年前に猫が家畜化された時点で「野生」ではない)
実際、親戚の家に泊ったときに、その家の犬の散歩の時に「犬は土のあるところを歩かせないとダメだ」って、石がゴロゴロしている川べりを歩かせて、犬が足を痛めて夜通し鳴いてたって事、私、知ってるからね。(そして、それを指摘されると「あんなのは、飼い主が甘やかすから犬が本来の生き方をできなくて可哀相な飼い方なんだ」とか、全然こたえてない様子。)
飼うのも責任を負うのも私なんだから、相談も持ち掛けないし、口出しもして欲しくない。

閑話休題

私ねぇ、とある外資系の会社に転職した時に、直属の上司のそのまた上の外国人の本部長と最終面接したんだけど、その時にね「僕は、キミがここで仕事というだけじゃなくて、人生の学びの機会と思って自分で自由に考えて、自分のミステイクをして、そこから楽しく仕事をして行ったらいいと思ってるんだ。もちろん、会社が潰れるような失敗じゃなくてね(笑)」みたいに言われて、すっごく衝撃的だったんだよね。
国民性の違いもあるけれど、でも、自分で考えた結果なら、失敗もアリなん???

ええええ?

失敗してもいいんだ!
(ちなみに、会社を潰せるような権限を持って仕事をしていなかったので、その点はご安心ください)

でも、そう言われても、心のどこかで「失敗は恥」「取り返しがつかない」「一生笑われる」みたいに、それこそ「失敗したら死ぬ!」くらいに感じていて、仕事も「大過なく」つまり、小さくまとまって、殻を破れずに終わったのよ。
そりゃあ、自分で「担当ですから!」って手を挙げて、生まれて初めての海外出張もしたし、ネイティブを差し置いて英語での顧客へのプレゼンもしたし、いい経験もいっぱいしたよ?
でも、心では「失敗したらどうしよう」って、常に脅かされていたのね。
後から入ってきた同僚なんて、すごくノビノビ仕事をしてて、フットワークも軽いし、性格も良いし、軽いノリで「あ、それ、やった事ないですけど、やってみますね!」「ダメそうな所が出てきたら、早めにお知らせするんで、ヘルプをお願いします!」なんて、ほんと、私が重油の中を足を取られながらもがいて前に進めないところを、ターボエンジンでスイスイ進む船?って思ったわよ。

直属の上司も、冷血漢て言われてたけど、たぶん、頭が良すぎてそう見えてただけで、本当は凄く凄くできた上司だったと思っていて、今でも覚えているのが、自分の力に余る案件を担当だからって持っちゃって、どこから手を付けて良いか分からないまま時間が経っちゃって、それを上司にゲロったときのことなんだけど、サクッと「ふーん。じゃあ、明日、xxさん(その会社の偉い人)に電話して謝っとくよ」って、え、それだけ?
もう、申し訳なさで死にそうだった私に、上司(当時)は一言「部下のために頭を下げるのが俺の仕事じゃん?」。
え、責めないの?いいの、それで?
頭下げるだけ?
結局、遅延をお詫びして、その案件について詳しい人を社内で見つけてレクチャーしてもらい、事なきを得て、別にその後もフツーに仕事をしてたのですが、もうね、ほんと、冗談でも誇張でもなく、割腹したかったわよ!
(たぶん、出来る上司的には、「そんな事しても一ミリの得にもならないし、やめて」だと思うけど!)
責められないことで、余計に「見捨てられたのかな」とか「怒る価値もないって思われた?」とか、ドツボにはまってね。
面倒くさい部下だな!!

でさ、じゃあ、私が育った環境で、実際に失敗するとするじゃん?
そーすっと延々と人格否定って書いたじゃん?
気が済むまでサンドバッグって書いたじゃん?
それで終わりじゃないの。
その後の話、聞いてくれる?
失敗すると、そこから人格否定って話はさっき書いたけどさ、例えば、その「失敗」が自分で考えて何かをした場合、それも、親の意向とは違っていた場合とかあるじゃん?
そうするとね、その「失敗」を人質に取られるというか、「失敗」を盾に、ありとあらゆる事を「親の意向」に沿うようにガミガミ言われるのね。
あとは、親の言うことを聞かないなら、勝手にしなさい、後は知らないから!の実践ね。
今でも覚えているんだけど、たぶん、3歳くらいの時に、家に、すごく綺麗な背の高いグラスがあったのね。で、私、そのグラスが大好きで、ある時、そのグラスに水を入れて飲んだらどんなに素敵だろうって考えたらしいのね。んで、そのグラスを戸棚から取って、水をそれで飲みたいって親に言ったのよ。そしたら、幼児だったし、グラスじゃなくてプラスチックのカップにしなさいか何か言われて、でも、納得しなくて、ギャアギャア泣いたのね。

で、じゃあ好きにしなさいって言って、グラスを渡されて、大喜びで水を汲んで、その時にも「ウソ泣きなんかして、もうハシャいでるし」的な事は言われたけど、大好きな綺麗なグラスで水を飲む!って事で頭がいっぱいだった私には大して響かなかったよね。
そんでもって、テーブルにグラスを乗せて、何て綺麗なんだろうって眺めていたよね。
たぶん、そんなに長い時間じゃなかったと思うけど、たぶん私がちょっと触っちゃったとかそんな事だと思うけど、グラスが倒れて水がこぼれた!
ちなみに、グラスも、当時は「こんな綺麗なものはない!」って思ってたけど、今みたら、たぶんフツーのグラスなんだと思う。
で、水をこぼすのを母はじーっと見てて、一言「ほーら、やった!」って、そっから立ち去ったよね。で、焦って「お母さーーん、水がこぼれちゃった」って言ったら「そうじゃないでしょう?水は自分でこぼれないでしょう?貴方がこぼしたんでしょ?」って言いなおしさせられたよね。
「水、こぼしちゃった!」って。
そっからね、ガン無視なの。
「ダメって言ったのに、言うこと聞かなかったよね。いう事聞かなかったんだから、知りません」って言って、後は「拭かなきゃ」とかオタオタして「どうしよう!」って言っても、知らん顔で聞こえないふりしてるし、泣いても無視。あ、これは、後から「貴方は卑怯者で、何かあったら泣けばいいと思ってるけど、それは大間違いだからね。」って叱られたけど、それはまた別の話。
たしか、水をこぼしたら台布巾で拭くはず!って思って、台所にかけてあった布巾をもって行って拭いて、布巾を絞って、シンクの所に置いといた。
うん、なんか全部間違いだったみたい。
その布巾は、テーブルを拭く布巾じゃない。
布巾は使ったら、ちゃんと洗っておく。
洗ったら、ちゃんと絞っておく。
布巾かけにかけておく。
どれも満足にできないんだから。

で、結局、「親の言うことを聞かないで水をこぼして、(グラスは無事でした)泣いてどうにかしてもらおうと思う卑怯者」「布巾に付随するアレコレが全然できていない、全部不正解」「自分じゃ何もできないんだから、親の言うことを聞きなさい」って所に着地したよね。
あと、その後は、何かあるたびに「グラスを倒したこと」を引き合いに出して、だからダメな子扱い。

こういうことが日常茶飯事だった。
それが初めてでも最後でもなかったし、何なら、今でこそ絶縁してるから何もないけど、繋がっていたら過去のアレコレでウダウダ言われるはず!
実際、全然関係ない25年前の法事のときのことを「もっと愛想よく親戚と話すと思ってたのに!恥ずかしいやつ!」って言われたのが去年の10月。知らない親戚と盛り上がれるほど世間擦れしてなかったって事なんだけどね。その時の議題は「父の入院」についてだったし、全然関係なかったんだけど、いきなりでてきて「は?」だったよね。
「もう他人なんだから、入院でも何でも勝手にしてください」って話だったんだけど、この期に及んで「親子」「血は水より濃い」とか言ってて「知らんがな」って黙ってたら「お前は法事の時だって、そうやって押し黙っていて、俺は恥ずかしかった!」とかね。え、法事?25年前?みたいな。そっから始まって、法事ではああするべきだった、こうするべきだった、だけどお前は・・・ってね。
きっと、親戚とワイワイやってたらやってたで「悪場擦れ」とか言われてるはず!
それにしても25年間、ずっと温めてたネタだったのね!
不発で残念だったわね。。
つか、身体壊すくらいの激務なんだし、法事に参加しただけ感謝されてもよくない?
今になって「法事の時に静かだった」って、全然関係ない話の時に武器として持ち出されてもねぇ。その武器、錆びてるよ。既に武器ですらない。


脱線したわ。

何だっけ。失敗すると人格否定。
親の意向に沿ってないと余計に否定。
それで失敗すると、「アンタが勝手にやって勝手に失敗したんだから、勝手に自分でどうにかしなさい」と、一切なにも聞く耳を持たない。無視。
失敗したことを後々、引き合いに出して親の意向に沿わせる。

何か、一番不気味というか、イヤなのは、まず、「これがしたい」って事が親の意向とずれていた場合、見守るんじゃなくて、失敗を待つためにじとーっと監視されてるのが気持悪いし、あと、失敗した場合絶対に手を貸してくれないのが、死体蹴りというか、こう、子供としては堪える訳ですよ。
失敗しちゃったーって行くと、ガン無視とか、焦って泣くと卑怯者とかね、そうなってくると、失敗とかできないじゃん?

作家の宇野千代先生が、事業で失敗したり、男関係で失敗したりして、失意のうちにお母さんの所に戻ると、周囲の冷たい目をよそに、絶対「何でそんな馬鹿な事したの」なんて言わないで、「おう、よう帰ってきたね」って迎え入れてくれたってエッセイに書いてらして「え、そうなの?」って思った。
私は子供がいないので、その辺の、親の心情っていうのが分からないんだけど、頭で考えると、例えば、親に黙って勝手に子供が借金を作ってたら、それは子供に自分で返させるのが筋で、親が尻ぬぐいする話じゃないとか思うよね。
でも、なんつーか、私が親からされていた事が、「その通り」って思えたかって言うと、「あれは無かったんじゃない?」って思う。
借金は子供本人に返させるのが筋としても、正面に敵がいる子供を背後から撃つかなって話。

私、離婚する前に、ちょっと実家にいた時期もあったんだけど、そこからだいぶ時間が経ってから、再婚して家のローンって時に、親にはビタ一文出してもらっていないにもかかわらず、なんか口を出してきて「でも、もうこれは銀行と取り決めしてるから」って言ったら「離婚だって自分ひとりじゃ出来なくて、親の家に居候してたくせに、何よ」的な事を言われて、すんごいビックリしたことがあったのよ。
離婚自体は、そりゃあ凹んだけど、別に調停とか裁判とかもなく、双方合意でサラッとできたけど、まぁ、ちょっとはゴタゴタするよね。
でも、そういうのも、親の閻魔帳には私の負債として付いてるんだなって。
女三界に家なし・・・ってこの事だよね?
だから自分の家を買うんだよね。
ちなみに、離婚前に実家に居候してた時も、「今後はどうなるの!」ってキャンキャン言われて気が休まる時がなかったし、職探しや何かでネットを使ったり、光熱費も食費も増えるしで、「週いくら」で滞在費を払えって言われてて、払ってました。
だから、別にベタベタの居候だったワケじゃなくて、払うもん払ってたはず。少額でも。金取った上に、後から脅す材料にするとか、何なの?
何だろう、このモヤモヤは。
別に「親だから、してくれて当然」とも思わないけど、離婚って事で気持的に大変だった時に「実家にいるなら払え」って言われて、何だかちょっと悲しかったよね。
しかも、後から、私が自分ひとりじゃ何もできないから親の言うことを聞け!って言う、エビデンスみたいに使われてモヤる。

うーん、何て言うか、別に尻ぬぐいをして欲しいとかじゃないんだけど、自力で失敗の帳尻を合わせに行くためにも、「味方」とか「安全基地」とかがあったら、ずいぶん生きやすくなるんじゃないかなと思った次第。

彼らには彼らの考えと言い分があるはずではあるけど、やっぱり、何か失敗して、ちょっとでも親の不安を掻き立てると、倍以上になってペナルティが返ってくるとなると、割が合わないよね。
もちろん、彼らも、そこまで厳しくした相手に、老後に甘えよう頼ろうとかは考えてないと思うし、仮に頼られても、私が離婚前に実家に居候していた時に「週いくら」で滞在費を払ったように、それなりの「けじめ(と彼らは言う)」を要求すると思うんだけど、それは商取引であって、安心感と肯定感を醸成するものではないよね。
私も与えられてない安心感肯定感は返せないし。

じゃあ、私はどうして欲しかったのか、考えてみると、グラスを倒した時は「背の高いグラスは、安定が悪いから気を付けて扱う」ことを教えて終わって欲しかったし、離婚についてはちゃんと決着をつけるのは私本人しか居ないんだから、ちょっとくらい休んで疲れを取って、またこの世界に出ていかれるように見守って欲しかったなと。

ほんと、失敗をどう受け止めるかで子供って「どう世界に出ていくか」が変わるし、失敗をするのも受け止めるのも難しいよね。
ただ、私は、離婚も別に失敗だったとは思っていなくて、最初の結婚は、自分が見えてなかったけど良い経験だったと思ってるんだよね。あれがなかったら、今でも見えてなかっただろうことがいっぱいある。

子供を持っていない私には分からないってよく言われるけど、でも、親は自分の不安を子供にぶつけるんじゃなくて(離婚してこの先どうなるのか!なんて、本人が一番不安に思ってることで、それを、親が不安爆発で本人にぶつける話じゃないよね)、失敗から自力で立ち直っていくのを信じて、見守って(口出しじゃなくて)欲しいよなと思うのでした。
無視とかじゃなくてね。
ええ、子供がいない、親の気持が分からない奴の勝手な言い分ですが。

無視は効くよね。
親から無視されるくらいなら、言うこと聞こうかなって思うもん。
それくらい効く。
簡単な方法ではあるけどさ。。。
うん、それでいて「自分で考える子」とかをモットーにしてるとか言っちゃイカンですよ。
まぁ、独裁主義の国に限って「民主主義」とか国名についてるのと同じかな。

私、実は、「親から何か言われるのはイヤだけど、失敗する私が悪いんだし」ってずっと思ってました!
それがおかしいって気が付いたのは、管理職になる時に、「管理職とは」みたいな、マネジメントの本を読んだとき。

いわく。
「部下が失敗したら、その失敗について、一緒に分析して、改善点のみを建設的に指摘すること。チャレンジ自体は否定しない。」
「失敗した部下の人格否定なんてもってのほか」
「失敗した時こそ、管理職が部下によりそって、伸ばしていく」
「責めない。立場は管理職が圧倒的に有利ということは覚えておく」
「失敗した本人が、一番つらい。」
「他人の失敗の責を一端なりとも負うのが嫌なら、管理職は辞めなさい」
みたいなことが!

え?
えええええええ?

失敗したら、ここぞとばかりに、相手を叩きのめして言うことを聞かせる千載一遇のチャンスじゃないの?
あーあ、貴方の失敗を何で私が!とか、盛大に溜息をついて罪悪感を持たせる機会では?
失敗するのが悪いんだから、何を言われても仕方ないんじゃないの?
失敗して誰かに迷惑をかけたら、加害者なんだから被害者から何を言われても返す言葉はありません!(何か返したら「反省が足りない!」「開き直ってる!」で鉄拳制裁だ!)
失敗したら、もう、何度でもそれを引き合いに出されて、嘲笑されても、それが「責任」なんじゃなくて?

それら一切、禁止事項?

あの・・・私、失敗するたびに、それらほぼ全部をされてきて、多分、今回の失敗に関係ないんじゃないかなって事を言われてるときに「え・・それは関係ないのでは?」なんて言おうもんなら、「言われるのが嫌なら、失敗なんかしなければいいだけでしょ」「盗人猛々しいとはこのこと」って、100倍くらい返ってきてたよね。
千の風になるのはお墓の前だし、元金が100倍になる!っていうのは詐欺なんだけど、失敗についてサンドバッグにされてるときに異論を唱えたら、ほぼ確実にお墓に入るくらい100倍になって返ってくる。
少なくともメンタルは死ぬ。
即死じゃなくて、少しずつ削られて死ぬ。

あー、私ってば、よく生きてきたな。
って言うか、うん、消極的なのも道理道理!

まぁ、そこまだ分かったからって、じゃあどうするかが分からないから苦しいんですが、とりあえず、ちょっと書いてみた!

毎回、どす黒い思いを、長々と読んでくれてありがとう!
次回、「どす黒さの彼方へ!」ご期待ください!

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(☝ ՞ਊ ՞)☝